大丈夫、大人は楽しいぞ。

1月4日は、2024年ライブ初めの無善寺。
遅れ馳せ乍ら、あけましておめでとうございます。
今日まで本当に、ありがとう。
明日からはまだわからないから、望まず、怯まず、今を1秒ずつ、目を逸らさず。
つらいときやこまったときは、よそ見を活用し乍ら、1秒、5秒、20秒、数えて、気付けば朝日が昇っていたりする。
それでいい。
歪んでいていい。
ゆるんでいるくらいで、いい。
そもそも、歪みもゆるみもなく、果たして何に対しての齟齬かと問えば、自ずと答えは現れる。
元来、在るべき姿へ還す。
本来在るべき、姿へ還る。
それだけのこと。
ただこの大きな脳味噌が、逡巡とときめきを嬉々とするアブノーマルな臓器であり、そいつと一緒に一寸先は闇の現世をサーフしてゆかねばならないという逃れられない性。
"止むを得ない"ならば、一点の染みのようなそれの周囲を如何に彩り立ち回り、染みではない何某かに仕立て上げられるか否かとクロスワードを本気でやる心持ちで思考を巡らせる。
どんなものでも、おいしくおもしろく、調理する方法があるはずだ。
"ある"と思う限り、可能性はゼロではないのだ。
それは、一縷の望みというよりは、あきらめの先にある、飽和と安寧のイメージ。
『まわりまわって すべては繰り返す
めぐりめぐって どこにたどりつくのだろうか
この星の果て 空と海が交じる
この道の果て どこにたどりつくのだろうか』
ハロー、ワンダフルワールド。


4日は急遽、能登半島地震支援チャリティライブということで、売り上げ全額被災地支援に充てるとマスター菩薩のお言葉。
それを受け、りなちゃんが東京駅で石川県のご当地お菓子を買ってきてくれた。
みたらし豆という、大豆を甘しょっぱく味付けしたお豆で、そら豆を手のひらサイズにしたようなまるんとした箱にはいっている。
後から調べてみたら、正面の絵はすべて手描きなのだそう。
なんて素敵な郷土菓子なのでしょう。
そして、チャリティと聞いて、即時気付き行動に移せる、りなちゃん。
本当に、そういうところです。
本当に。
私はりなちゃんが、心の底からだいすきなのです。
りなちゃんのような、豊かなひとになりたい。
単細胞我が輩は、美味しいに準じパエリアを作ってゆきました。
美味しいパエリアを食べ、ビールをおかわりしたくなり、売り上げが伸び寄付金が増え、みんな笑顔でwin-winという目論見。
大晦日入手した有頭エビちゃんとシーフードミックス、それに豚コマ肉を追加した。
サフランはなかったので、ケチャップでほんのり色付けをした。
ちなみにお米は、おかあさんが送ってくれたコシヒカリ。
おかげさまで好評いただき、嬉嬉。
戴いた好意は、独り占めせずに、だれかと分かち合えたらいい。
この世のすべては私のものであり、また、私以外すべてのものである。
だからこの腕で囲っておく必要などない。
うばわれる心配なんてないのだから、こわいこわいと抱えたパンドラの箱は、早めにご開帳して仕舞おう。
お金も時間も、認識の及ぶ何某かは、こころよく差し出せる心で在りたい。
血を流してなお、あなたの至福を微笑んでいられたらいい。



まんじの作品集を買いに、代官山蔦屋書店へ行ってきました。
10年以上前から共通の友人である、ライリィライリーのGtVo.うのくんを誘って。
先月、やまだだ主催の忘年会でまんじが本を出したのだよねという話になり、一緒に行こうよとなった。
正直、ひとりで向かうのは憚られた。
まんじは当時から物凄いエネルギーの生命体で、この長い年月を経て、どんな化け物に相成っているのだろうと思った。
朗らかな人柄の奥にある、畏怖にも似た神聖且つ禍々しい、あの空気。
うのくんと代官山駅で待ち合わせると、右手に握りしめたサッポロ黒ラベルのロング缶を速攻で突っ込まれる。
さすがですねの声に、安心してください、と返す。
まだ2本目です。
蔦屋書店の一角にどっしりと展開されたまんじの作品集。
そしてまんじ本人がそこにいた。
当時、ギラギラと鮮烈でビビッドな印象のあった目の奥が、強さをそのままに、秋のはじまりのような色味とマットさを孕んでいた。
うのくんが、
「まんちゃん、瞳が、作品とおなじ色味をしていたね。」
と言っていたが、心底激しく同意した。
ただ、なんにも変わらなかった。
まんじはまんじだった。
恐ろしいくらいの熱量をもち、足取りは滑らかすぎるくらい、展開していく話題と理論。
出力と受信を200%成立させる人間を、私はまんじ以外に観たことがない。
愛というにはチープすぎる、宇宙のひとなのだと悟りにちかい感覚。
量子力学では、未来から現在が作られると云う。
合点がゆく。
然し乍ら、私たちはドグラマグラでいう箱庭を右往左往する存在なのだ。
わかるなんて、強がりはもうよそう。
わからんことはわからないであろう。
まんじと再会できた世界線。
いま在る感謝で手一杯で、この世界を嘆くなんて、私には到底、できないや。
まんじといた1時間弱、彼の話に夢中で、他の来客も多くサインして戴きそびれたし、記念写真も撮りそびれた。
それでもいい。
澁澤龍彦氏が『快楽主義の哲学』で、世の中が提唱するレジャーに乗っかる一般人にはうんざりだというようなことを書いていた。
私もミーハーな部類だが、粋か否かくらいは判断が尽くし、粋なものがより好ましく、ここちよい。
次がなくても、もう出会ってしまっている。
安心していい。
もう出会ってしまっている世界線なんだ。
鉄板の挟み込まれた作品集という、世界に唯一無二を生み出した彼自身が、この宇宙で唯一無二の存在なのだとおもう。
出会ってくれて、ありがとう。
まんじと出会った20代前半の頃、クラッシュと出会った。
クラッシュは、まんじとはまたジャンルが違うが、刹那的な空気がよく似ていた。
野性的凶暴性が全身から溢れ出ている男で、本能的にこの生物に逆らうべからずという緊張感があった。
演者や表現者ではないのだが、ライブハウスに客としてよく居て、常人らしからぬ空気がすごい。
そんな人間。
当時、U.F.O. CLUBの近くにあるクラッシュの家によく入り浸っていた。
ある日、なんの用件だったかは覚えていないが、ナカザワドアノブくんがクラッシュ邸にやってきた。
ドアノブくんは、玄関口でクラッシュとやりとりをした後、家にあがること無く帰っていった。
一度だけU.F.O. CLUBでライブを観て、とても好きだなあと思っていて、いつかお話したり、乾杯したいと思っていた。
その日が、ドアノブくんを観た最期となった。
まんじがアートと宇宙についての見解を奏でるように語ってくれている最中、ふと、ドアノブくんのことを思い出した。
最近思うのは、死ぬという現象のその先は、一般的に言われるこの世に生まれ変わる輪廻だけではないのではないかということ。
まったく別次元の、さらなる世界へのフェーズに移行する、そういう感覚とイメージが、確信を持ち始めた。
この世での鍛錬を修了した一定の人間は、この宇宙を総括するようなさらに高いところにある幹部で働くのだとおもう。
だから、死というのはかなしむほど悲壮なものではないのだとおもう。
人間社会で生きていくのに必要な当たり前の常識やモラルが、死を恐怖とイコールにしてしまっているだけだ。
私は、この目が見えなくなった時どんな色が視えるのか楽しみで、いつかくるおしまいの1秒先になにがあるのか体感出来るのが、嬉しくて喜ばしくて、たまらない。
ドアノブくんは、果たしてどちらに振れたのだろう。
その二択とはまた別のどこかに行かれたのだろうか。
彼の残してくれた音楽は、彼がいない今も私の日常をあざやかに彩ってくれる。
おそれることなど、なにもないよ。
こわがることなど、やめてしまおう。
守ろうとすればするほど、傷付いていってしまう。
もっと、羊水にただよう安寧のイメージで、よい。
晴天也。
今年がはじまって、1週間が過ぎた。
めまぐるしく、驚くようなことばかり起こる。
これだから、現世はたまらないし、やめられない。
今日はダムダム団ライブ初めだった。
たのしかった。
みんなみんな、ありがとう。
じみちゃんはお仕事だったので、ダムダムボーイズと3人でくら寿司へ行って豪遊。
軍艦巻きのチャンジャとかにみその上の具だけをちみちみ食べ、一番安い日本酒をキメる。
鈴木さんが、具が食べ尽くされた軍艦のシャリに、無料の大根ガリをのせて食べて、「うまい!うまい!」と喜んでいた。
ダムダム団は、2024年も、あたまがよわくて平和です。
本年も何卒、よろしくお願い申し上げます。
びっくらポンが当たらなくてかなしかったので、かわりに星のカービィのガチャポンをやった。
星のカービィ、だいすき。

今日は四谷アウトブレイク、明日は亀有KID BOXでソロライブ。
私はアウトブレイクのドリンクチケット100枚セットを購入しているため、本日はビール無双。
トリ前だが、飲酒に手抜きは無用なんである。
のむぞ。
希望と絶望が荒れ狂う、あたらしい朝が、ふたたび。
きょうもいちにち、たのしくゆこう。

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