さみしいよ、お母様。
吉幾三氏作・田中義剛氏歌唱、おぼっちゃまくんのアニメのエンディング曲『茶魔さま』がだいすきで、よく聴く。
サビの歌詞のところで、いつも泣く。
ともだちんこ等下ネタのオンパレード、大金持ち由来のそのスケールのデカさ、どこをとっても最高のコミカル作品である。
おぼっちゃまくんはそのギャグ設定と裏腹に、おかあさんがはやくに亡くなっている。
金で作った机にはダイヤの鉛筆転がって〜と、ふざけ散らかしたAメロからの、
"さみしいよ、お母様 お姿、一目でも"
というサビ。
当時から涙腺にきていた。
吉幾三氏の独特のセンスもよい。
名曲すぎる。
過去にタイムスリップして、幼少期のおぼっちゃまくんとお母様を影から見守るという回があるのだが、そんなの、速攻で大号泣である。
私は、根本的に、すぐに、そして、よく泣く。
今でこそ諸々おっぴろげな性格だが、小学校低学年の頃はシャイで、下品なものが苦手だった。
バカ殿でおっぱいが出てきたりすると、どんな顔をしてよいのかわからず、みんなが爆笑する中、顔を伏せる始末。
しかし、自我が芽生えるより前、3歳ちょっとの頃のホームビデオの記録では、おぼっちゃまくんの枕をしっかり握り締め、にやにやしていた。
通っていた幼稚園では、男の子が喜ぶからという理由で、自分でスカートをめくってパンツを見せたりもしていた。
なぜなのか。
なんとなしによくないことなのだろうと感じていたからか、竹藪など、先生の目のつかない場所でパンチラしていた。
なんなんだ。
生粋の痴女なのか。
幼稚園ではこうたくんと両想いで、マンションに帰ると近所に住むつばさくんと両想いだった。
その歳でなにをしているのか。
事象としての記憶はあるけれど、どういうつもりだったのか、ぜんぜん思い出せない。
本当に単純に、目の前のその人が喜んでくれるのがうれしくてやっていたのだとすれば、今現在の性質からして納得はゆく。
もしくは、元来、性や下への好奇心が化け物クラスなのだろうか。
アイデンティティの確立と同時に、第三者からの視点や世間体、こうあるべきという感覚が、アラジンの魔法のランプみたく私の下の素養を封印してしまった、とか。
総じて、我ながら、かなり気が狂っている。
そういう自分を、心のどこかでおもしろがってもいる。
また、性への興味というのは、生命の根幹への羨望であり、還帰であり、死だともおもう。
感覚を頼りになにかを表現し作り出す人間は特に、避けては通れない道なのだと、小さい頃から漠然と感じていた。
深層心理に於いて、私の中にあるひとつの課題なのかもしれない。
とはいえ、世論や世間一般が個の思考回路に与える影響たるや。
わたしたちは思いの外、たくさんのあたりまえを身に纏ってしまっている。
ふとした違和感や不快感にアンテナを張り、疑うこと、問うことをして、ていねいに落とし込んでゆければ、軽やかに生きてゆくことができる。
いまのところの処世術。
私もまだまだ、練習の最中。
もっともっと、あらゆるすべての人やものが、応用出来得る発明と発見をすべく。
この身体も心も時間も、余すところなく、費やしていこう。
銀座ソニーイメージングギャラリーへ、フォトレツさんの写真展のトークショーを観に伺いました。
岡山ペパーランドのマネージャー慶子さんから、
「ドラァグクイーンのヴィヴィアン佐藤さんという素晴らしい方がいる。」
と、お聞きしてから、Instagramをチェックしていた。
今回、青森は八戸の全盲のイタコ、中村タケさんに密着したという展示の内容にも惹かれ、足を運んだ。
トークショーの前に、八戸のシンガーソングライター古屋敷裕大さんのライブがあり、とても和やかな雰囲気。
来場者様も青森出身の方が多くいらして、質疑応答のお時間には、いろんなお話を聞かせて戴けた。
イタコはその土地に土着した職業であり、死者を降ろす口寄せの他に、健康などとても身近な相談にも乗ってくれる存在だということ。
他県でイタコの話題を出すと、好奇の目を向けられること。
その実、その土地、その村の大お母さんのような存在で、一般的なイメージにある恐ろしさとは落差があるという。
私は仕事上青森の方ともお話をする機会があるのだが、ぱっと聞いただけで、あ、青森の方だ、と思い伺うと、やはり青森だったりして。
語尾の感じや、いわゆる訛りに、独特の温もりを感じ、とても興味がある。
トークショーが終わって写真集を購入し、ヴィヴィアンさんにお声を掛けた。
「慶子さんね。あの方も、イタコのような人ですよね。」
と笑っていらして、本当にそうだと思った。
私も、初めてステージを観た時から、慶子さんはシャーマンだと思っている。
有名な方なのに快くお話に応じて下さり、じゅんじゅんはしゃぎすぎTシャツを着ている私に、あなた濃いわねと最上級の褒め言葉を下さった。
私はきっと、何年たっても地位も名誉もないままだろうけれど、慶子さんやヴィヴィアンさんとお話して、歳を経た時、こういう方で在りたいなあと思えました。
銀座ソニーイメージングギャラリーで25日まで。
お近くにお立ち寄りの際には、是非。
トークショーの日は閉館時間が差し迫っていたため、昨日、あらためてギャラリーを訪れた。
ゆっくりと写真を拝見し、その奥深さ、あたたかさ、決して重たく暗いものではなく、春風のような爽やかささえ感じた。
作者であるフォトレツさんともお話させて戴き、充実した鑑賞時間。
前述の日には流れていなかった、死者を降霊する、いわゆる「口寄せ」の音声が、ピアノのBGMの向こうで小さく響く。
読経とも独り語りとも言えないそれが、とてつもなく心地よいのだ。
気付いたら、右腕の袖をめくり、右手にはめているパワーストーンのブレスレットを振り鳴らしていた。
どきっ、とした。
以前、祖母の遺品の鈴を組み込んだパワーストーンをはめていた頃、なにか違和感を感じると、思うより早く右手が小刻みに痙攣しブレスレットを鳴らすという現象がよく起きた。
最近はあまり無かったのだが、あの時のそれと同じ感覚だった。
ちなみに、ダムダム団で唄っている時に手や頬が痙攣するのも、これと同じ感覚。
電気風呂に入って、腕が勝手に痙攣するあれにとてもよく似ている。
見えない琴線に触れると、文字通り震える性質らしい。
私はオカルトを信じる信じない論争に興味はないのだが、今年青森に行った際、帰りの夜行バスの中で不思議な事があった。
バス内の電気が落とされ、しばらく走り、周りの人は皆寝静まり始めた頃、シャン、シャンシャン、という、複数の鈴の音がした。
誰かの荷物がゆれて鳴っているのかなと振り返るが、車内は真っ暗でなにもみえない。
まあいいか、と目を瞑るのだが、やはり、シャン、シャンシャン、という鈴の音は途絶えない。
揺れで鳴るような不規則なものではなく、とても規則的に、シャン、シャンシャン。
嫌悪感や恐怖はなかったのだが、漠然と、バスの外から鳴っている気がした。
カーテンをずらして外を見るが、暗闇の中、森だろうかという漠然とした印象しか見受けられない。
外から鳴っている気がするのに、音は耳のちかくで、すこし空間を退いて、響いてくる。
12時間の走行中、三分の一ほどは聞こえていたと思う。
青森の土地神様が、歓迎の送迎にきているのだな、と漠然と思い、納得して眠りについた。
まどろみながらどこか温かく、心拍とセッションをしているような、不思議な体験だった。
恐山が閉山期間で入れなかったため、近いうちに再来したい。
ライブも演れたらいいなあ。
日記が追いつかないほどに、日々日々たのしく、愉快なキャラバンのような生活。
自分へのクリスマスプレゼントに、パンチェッタを仕込み、こちら、素晴らしい仕上がり。
昨日焼きそばに入れて食べたのだが、飛び上がるほどに美味しかった。
もっと素材の味を活かすペペロンチーノとかにすればよかったのだが、焼きそばに混ぜても殺されない、最強の肉に仕上がりました。
至福。
おいしいときもちいいは、大正義だ。
かわいいも、大正義だ。
私はあきらめがわるいタチなので、やりたいことはぜんぶやる。
男は舟、女は港、じゅんじゅんは移動式の港。
今夜はなにを作ろうか。
クリスマスは、ダムダム団とソロと、ライブ2Days。
じゅんじゅんはクリスマスがだいすきなので、とってもたのしみ。
チキンとか焼いていこうかな。
お暇があいましたら、是非。
みんなで乾杯致しましょう。
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