迷わない人はひとじゃない。

森美術館へ展示を観に行った。
森美術館開館20周年記念展。
『私たちのエコロジー:地球という惑星を生きるために』
環境危機に現代アートはどう向き合うのか?と銘打たれた展示。
森美術館はスペースの広さ故か、いつも見応えのある展示が多く、興味のあるテーマということもあり、伺ってきた。


【今回の展示でいちばんみたかった、モニラ・アルカディリの『恨み言』。ペルシャ湾岸の産業であった天然真珠。100年程前に日本で真珠の養殖が盛んとなり、ペルシャ湾岸の真珠産業は衰退した。真珠を模したオブジェの真下に立つと、真珠たちの積年の言の葉が静かに降り注ぐ。ポップな景観と裏腹に、かなりヘビーな作品であった。】

私は、作品を観てまわるのが、とてつもなく、おそい。
不登校時代、朝ごはんを食べていたらお昼ごはんの時間になり、お昼ごはんをたべていたらおやつの時間になり、おやつをたべていたら…以下同文、という、ごはんを食べる速度とおなじくらい、おそい。
食事の量は通常であるのだが、一度に口に含む量が少ないのと、咀嚼回数が人よりも、多い。
また、映画を観たり絵を描いたり、他のことに気を取られて食べる手を止めるなどの要因のせいであるという程度の自己分析は済んでいる。
この日も、展示すべて見終えるのに、3時間半を要した。
作品の見聞および受信に、おそいはやいは関係ないような気もするのだが、予備校時代や美大在学中、とにかく美術館に行け!作品を数多く観ろ!と先生たちに言われ実行するも、ふたつ、みっつもギャラリーをハシゴしようものなら、脳みそがぱつんぱつんに膨れ上がり、もう破裂してしまいますんっ、と、実際物理的に熱を帯びた側頭部を片手で支え乍ら、これはあかん、と思った。

1日に複数の展示を観てまわり平然と淡々と感想を述べゆく幼なじみのけんくんを見て、ふつうは脳みそぱんぱんの側頭部アチアチにならんのだな、と虚無を感じた。
ふたりで川村美術館へマーク・ロスコ展を観にいったときも、けんくんは帰りしな、用いられている画材を含め、冷静沈着な見解をつらつらと話した。

私はといえば、ロスコの規格を超越したクソ馬鹿でけえキャンバスと、クリムソンレーキをもっと禍々しく、内臓器をより深くしたような真紅の、これまたクソ馬鹿でけえ四角に異常に興奮したと共に、海外の教会に一歩入った際に感じる澄んだ畏怖×50倍みたいな衝撃に、船酔いのような、睨まれた蛙かなにかのような塩梅で。
なにが起きたのやら、俯瞰などと程遠いところで、へろへろだった。
中学時代からおなじアトリエで過ごし気心知れたけんくんの、淡々且つドライアイスにも似た言葉と声色が、逆に心地よかったような記憶がある。

【北海道のホタテの貝殻を敷き詰めてある作品。貝殻を踏み歩いてよい。意外にも硬質で、両足で飛び乗っても割れない。展示の後コンクリートの材料となるそうだ。】

いつだって、そうだ。
私は、くちにほおばってから、認識するまでが、おそろしく、おそい。
なにがおきたのだろう、と、一生懸命、考える。
考えて、思案しているうちに、世界は場面をかえてゆき、目の前のあなたはもうそこには居らず、私の一生懸命のページの遥かむこうから、手まねく。
「いつまでそうしているのだよ。」
と、わらいながら、手まねく。
私は、見えている現実を崩すわけにはいかないな、と、目の前の世界に則ろうと、私のなかの一生懸命をひとまずそこに置き去り、いそいそとあなたに追いつこうと、もつれる足を忙しなく。
置き去りにされた一生懸命の泣き叫ぶ声を背に、上手な笑顔で、あなたに追いつく。
追いついた、ふりをする。
くちにほおばったそれが食べ物ではなく、水銀のような得体の知れないなにかだと気付くのは、いつだって、とっくに毒が巡りきってからだ。
のたうちまわって、吐きちらかして、吐瀉物にまみれて、ああまたか、と、目の奥の灯りをにぶく落とす。
このまま、夜の闇にとけてしまいたい。
このまま朝日に粉々に撃ち砕かれてしまいたい。
おしまいのその先を、なんどもなんども、望む。
【広島生まれで被爆二世である作者。浜辺で拾い集めたゴミを焼き固めた『山口―日本海―二位ノ浜 お好み焼き』という作品。プラスチックから空き缶まであらゆるゴミがひとつの集合体となっていて、核投下の歴史を彷彿とさせる。2トンという質量に威圧感があるかと思いきや、禍々しさよりも生活感のような不思議な感触を覚えた。広島平和記念資料館の遺品に覚えたぬくもりに似ていた。】

また目が覚めた。
本の中で、
「ねむることはしぬことだ。」
と僧侶が説いた。
おわったはずのこの目が覚めるたびに、うそつき、うそつき、と呪詛をこめて唱える。
身を起こす。
歯を磨く。
バーベキューのあとの木炭のような瞳をして、それでも一歩外へ出れば、太陽は裏切ることなくいつもの方角に在り、いたいくらい、あたたかい。
きらきらとした世界に気を取られて、気付けば目の奥の灯りは復旧をしており、目の前にあらわれたそれを、懲りもせず、ほおばる。
懲りていないのではなく、過去の過ちから推測し得る懸念をうわまわる欲求と衝動に駆られ、気付けば、過失している。
わたしはあんまり、かしこい人間ではないらしい。
現に、前歯を何度折ろうとも、それが原因で破局しようとも、アルコールを呑み続けている。
生きるという甘美を前にしては、どんな代償も罰も取るに足らないことだと証明するかのように、駆け出してはすっ転び、両膝を擦りむいたまま、また両の手を伸ばす。
不遇だとはおもわない。
わたしはあんまりかしこくなくてよかったな、とさえ、おもう。
息絶えるまで、きっとこのまま、おんなじ轍を踏み続けるんだろう。
たとえ骨が砕けても、表皮がズタズタになろうとも、アザミもバラの花も全部だきしめて、ほおばっていたい。
森美術館の展示を観てから、少々様子がおかしかった。
LOVE TKOでのライブの日、耳に入る言葉や他者の所作の感触がヒリヒリといたくて、今日は早く帰ろうと店を出ると、両足のブーツに羽がはえていた。
これはまずい、歩道橋にのぼってはいけないやつだ、と、咄嗟にやまだだに連絡をした。
なぜやまだだかと問われれば、最近家の近所に引越してきたのと、私にとって、サザエさんの、
「磯野ー!野球しようぜー!!」
に近い快さと、あとはなんだ、理由なんてたくさんあるようでないようなものだ。
「カレーパン、揚げたてですー!」
というセブンイレブンの店員さんの声掛けにそれではひとついただきましょう、と、缶ビールとカレーパンを買い、だだの家へ向かう。
おうちに着いて、早々に、
「だだ、じゅんじゅん、変なんだ。音楽を聴くと涙がとまらないし、うたっても、涙がとまらないんだ。」
と訴えると、だだは、
「いつものじゅんじゅんじゃん。」
と言ってのけ、買ってみたけど辛くておおくて食べきれないという豆菓子をすすめてきた。
たしかに、からい。
だだの家のこたつでカレーパンを食べながら、今の自分はやばいとおもったけれど、わたしは普段からやばいやつということかそうかそうか、と、複雑と納得のあいだをふわふわする。
気付けばそのまま居眠りをしていて、はっと目覚める。
もうねるけど泊まってく?帰る?と問われ、すこし悩んで、帰る、と答える。
だだありがとうと別れの挨拶をして、おうちを出て足元を見たら、先程までの羽は消えて、靴底は地面にきちんと密着していた。
たすかった。
ありがとう、だだ。
世界線を移行するときというのは、映画の見せ場のようにドラマチックな、劇的な場面などではなく、もっとにぶい、ゆるやかであたたかな滑稽の瞬間なのだと、随分むかしに、本能が教えてくれた。
よかった。
まだこの世界で、やるべきことが、山程ある。
よそ見をして、呼吸をリレーする。
この世界を続ける。
神様。
おしまいにしようとおもったあの日、もうすこし、あとすこしだけ、世界をみていたいと、うつくしいとおもってしまったわたしへの罰でしょうか。
おしまいのその先を、なんどもなんども、望む。
なんどもなんども、めぐりめぐる。
甘んじて、受け入れるべきなのだ。
わたしは、あんまりかしこくなくてよかったな、とさえ、おもう。
喜ばしいとさえ、おもう。
ピアノの旋律は、いつもやさしい。やさしい。

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