目が覚めたのなら、はじめるとしよう。

昨晩水に漬けておいたお皿を洗おうと、朝キッチンに立つ。
こびりついた油が落ちないので、お湯を使うことにした。
お母さんはおうちに泊まりに行くといつも朝、
「じゅんちゃん、お水が冷たいから、お湯で顔を洗いなさい。」
と言って、私のために、給湯器のスイッチを押してくれる。

私自身がお湯で顔を洗うのは、12月や1、2月の、本当に耐えられないほど寒い冬がきてからだ。
ガス代がもったいないからと、冷たいなあと思いながらも、冷ややかな水で顔を洗っていた。
食器を洗うためのお湯を出しながら、ふと、自分のためにお湯を使うことを渋っていた自分に気付いて、驚いた。

私にとって大切なひとがいたとしたら、きっと私も、お母さんとおんなじことを言うだろうし、おんなじことをするだろう。
その人が冷たい水にふるえていたら、いてもたってもいられないだろう。
世界はこんなにも温かいのに、誰よりも自らを虐げていたのは紛れもない自分自身だったのだと気が付いた。
壮大過ぎる御恩と、それに気付かないまま、小さなセルフネグレクトをし続けてきた自分の愚かさに、なみだがぼろぼろ出てきた。
泡だらけのスポンジを握りしめたまま、泣き崩れた。
まだ、遅くない。
早くもないかもしれないけれど、この恩返しをすべての世界へしていかなければならない。
この人生では、きっと、絶対に返しきれない。
それでも、やらなくちゃ。
こんなにもありがたいことはない。
目まぐるしく展開されていく人生にのまれ、舵を取れずに咽び泣き、それでもなんとか身投げせず自問と自責とを繰り返し、本当に稀に、差し込む仄かな灯りを求めて。
なんでだろう。
どうしてなのだろう。
わかりたい。
わからない。
わたしはどこまでも稚拙で、鈍感で、愚かで。
それが、ものすごく、悲しかった。
そう、ものすごく、悲しかった。
悲しいも、苦しいも、憎むことも、恨むことも、この先の人生がどのくらいかはわからないにしろ、もう充分、やり尽くしたのだろう。
「でもまだ恨み足りない。」
「まだまだ罰が残っている。」
そうやって駄々を捏ねて、進む先からそっぽを向き続けた30数年。
懲りずに向き合い続けた結果が、今ここにある、私という集合体。
あらゆる形で私と細胞を、粒子を、脳波を交わし感化し波紋を共にして下さったすべての存在を、敬愛し、誇りに思う。
だからもう私は、私を否定したりしない。
私をいじめたりしない。

目が覚めたのならば、はじめるとしようか。
私はうまれてこの方、一度もあきらめてなんかいない。
往生際にも気付かないほどに、無我夢中でとにかく、四肢を、感じるすべてを、思うままに。
遠くへ行ったって、瞼をぎゅっと閉じたって、いつでもお天道様がついているから。
泣き叫んだって、ついてくるから。
自分をないがしろになんて、ぜったいにさせない。
この世界、ひとり残らず、方舟に乗せるつもりで歩む。
この身も心も、削り倒してやる。
全うしよう。
そうしよう。
私はもう、いたずらに、世界をおそれたりしない。

この鼓動を、身体を、浮世を手放すそのとき、
「輪廻もなんにもいらないです。」
と、朗らかに宇宙へ還れますように。

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