如月。
2月。
気付けば予定が埋まっている。
自分で組んだはずの時間割を、まるでだれかに組み立てられたかのように感じるのは、あまり良くない傾向と感じる。
少し前の別の私が作った予定の地図上の目的地を、今現在の私が辿ってなぞっていくのだから、齟齬は勿論生じる。
そう考えれば、無計画でも責任転嫁でもないのだと諦めがつく。
取り決めてしまったものは仕方がないのだし、なるべく被害者意識の生まれないよう努めると同時に、少し先の別の私には、少々の退屈と、私自身と戯れる程度のアソビを意識して組み込んでいこうと思ったのが、ついさっき。
過去に取り決めた予定を完遂しなければならないけれども、それを辞退したからといって、死ぬわけではない、と自分に言い聞かせながら帰路に着く。
気付けば無意識下でのこだわりが、日常の細部にまで及んでいて、唖然とする。
順序立てて、その通りでなければいけないという感覚が漠然と自分の中にあるし、その証拠に、"順序通りでない方法"がそもそも思考の選択肢に存在していない。
コース上のその小さなカラーコーンを恐れて身を捩りながら進むのではなく、ひとつひとつ目を向け、抱き上げて、そっと道の端に置き直すことをしてきた。
今日は、最寄りのスーパーと薬局で買い物をして帰宅する事が出来た。
より安いお店で買う為の遠出する事を諦めた結果、掃除も洗濯もお料理も捗った。
排水溝の強力な洗浄剤はお風呂掃除を全て終えた後にするという、いつのまにか染み付いた自分ルールを破った。
掃除は勿論、なんの問題も無く終わった。
そういうことだ。
心の平穏を望むのならば、こだわりは、少ない方が良い。
一旦試して、なにか違ったらまた変えればいい。
そのくらいの心持ちで、やってみればいい。
睡眠が少しだけ足りなかったのか、ストレッチを終えた後、そのまま床に伏せしばらく気を失うようにして眠った。
すこし、人に会うことをし過ぎたかもしれない。
否、最近気付いたけれども、人に会うこと自体はそこまで問題ではない。
私自身が、人によって違う顔を見せる所為だった。
身振り手振りを相手に合わせて、心を言葉を捻じ曲げて操る自分に、非常に疲れる。
一度気付いた心穏やかな心境とありのままの振る舞いを、すこし見失ってしまっているらしい。
折角機会を頂戴してやりたいなあと思っている案件も、実際に手を付けられず足踏み状態で、やっぱりちょっと、そうみたい。
思い返せば、ここのところ、衣食住の土台が満ちていなかったように思う。
余裕がないと取り繕う癖があるようだ。
不安やガタつきを埋めようと必死なのだ。
コミニュケーションのイメージは自身と逸れてゆき、それに見合うように、さらに背伸びをしなければならず、溝は広がり深まるばかり。
とりあえず、ごはんを食べて、お風呂に入って、夜はきちんと眠ろう。
なにもしないことをするのが、とても苦手。
だから、きちんと、なにもしない、を、しなくっちゃ。
いつだって、不具合の答えは、全部自分の中にある。
偶然知ったSiaのChandelierという曲がすごく良くて、MVもすごく良くて、ずっと聴いている。
私はそんなに英語が出来るわけではなくて、それなのに一瞬耳に入ってはっとしたというのは、やっぱりそういう事なのかなと思った。
文字も言葉の意味も超えてくるのが音楽の魔法だし、だから、好きですとかずっと続けていきたいとか口に出す発想もなくて、ただただ選択と欲求に任せて、耳に入れたり、奏でたり、している。
すごく良い曲だ。
救われようとするなよ。
救われようとする時、人は、目の前の希望を踏み潰していることに気付かないし、被害者面が意外と心地のよいことを知っている。
救われようとするなよ。
マクロとミクロとを行き来して、絶望に染まらないよう、幸せに辿り着かないよう、彷徨う。
明日はもうすこし、感謝を増やそう。
おやすみなさい。
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