三人寄れば文殊の知恵。
"三人寄れば文殊の知恵"から学ぶべきは、ひとつの物事に対して少なくとも三つは見方を持っておくことであると読んで、成る程と思った。
私ひとりという時点で、思考の偏りは免れない。
それならば、せめて三方向、三通りの考えや捉え方は持ち合わせるが吉。
なんのためかと云えば、人間である以上必須となる人と人との関係の中での意思疎通を円滑にするため。
もっと言ってしまえば、自分が快く生きていくため。
そのすべての思想に同意するという意味ではなく、認識するということが重要なのである。
それらをもとに、自分は果たして、思想的、嗜好的に全体のどの位置に居るのかを把握しておくのは、自ずと偏ってしまう生き物としてとても大切と思う。
自分の内面にある欲や世間体に翻弄されながら舵を取る毎日。
目まぐるしい日々に流されてしまいそうになるけれど、なにかの節目やタイミングで、
「今の私は、私が在りたい私だろうか。」
と、第三者的観点で、出来る限り曇りのない目で見据えて、こんなはずじゃなかった!と思ったのならば、その時点で足を止めればいい。
ここまで生きて培ってきた感性を総動員して、好ましいと感じる決断をして、進めばいい。
でも、だって、ここまでがんばってきたのにと、毒だと分かっていながら目の前の何某かを握りしめて離さないあなたには、今一度、自分の手のひらを眺めてみることをお勧めする。
その何某かを手放したとて、あなたが今日まで脈打ってきたその指は、指紋は、血液は、細胞は、変わらずにあなたを作り続けるし、なくなることはないだろう。
もっとシンプルに考えて生きていい。
必要だと思うものがあちらこちらに転がっていたら、それに足を引っ掛けて転んで、大怪我をしてしまうかもしれない。
それはきっともう、あなたに必要なものではないのだよ。
幸せを勝ち取ることは、不幸に耐えることより勇気が要る。
同じ毎日がくると思ったら、大間違いだ。
今日の私が、私史上一番新しい私。
だから過去なんて、背負わなくていい。
昨日はダムリハでした。
鈴木さんが仕事の疲れでぐったりしていた。
終わってからの飲酒もほどほどに、帰って仕事するわあとママチャリで消えていった。
私は高円寺のカラオケバンバンでひとり2次会して帰りました。
カラオケ会の宣伝動画を撮ろうと思ったのだが、ぺろんぺろんで見せられたもんじゃなかった。
ははは。
今夜は花夢でお手伝い。
がんばるちゃん。
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