あたりまえの中に幸せがある。
気付いては当たり前になり忘れてゆき、また気付いての繰り返し。
「人生なんてそんなものだ。」
と豪語するのはちょっと違くて、わかった振りをすればするほど、全部が覆って黒歴史を増やす羽目になる。
口を噤めばいいのかと諦めたときもあったし、全部を論破できればいいと思い込んだときもあった。
倒錯して、気付けることも多くある。
こうかもしれないと思ったら、一度ずっぽりはまりこんでみるのが、私の習性のようです。
0か100かの極端な中で、舵を取るのだけはすこしだけ上手になった気がする。
ごはんを食べることが、幸せである。
少しの量を口に運び、30回は噛み締める。
ひとくち30回噛みましょうと小学校などで教わったが、大人になってからようやく、ひとくちの量にもよるよな、と気付くことができた。
要は単なる回数ではなく咀嚼率であり、固形物を一定の液状に精製することが目的なのである。
胃袋に負担をかけないために、摂取量と満腹中枢の歩幅を合致させるために、私達は食事を取る際、噛むという工程が必要になる。
噛むことは食べることであり、栄養を摂取するのとはまた違った喜びがあると思う。
"味わうという喜びを得られる心身を持ち合わせている"という確認ができる。
私は昔、癇癪を起こすと、食べ物を口に詰め込む癖があった。
癖というより、発作のようなものだったのだと思う。
食事中に叱責をされたり、納得のいかないことがあると、わーっと頭に血がのぼって、抑えきれない衝動に任せて、ひたすら口に食べ物を詰めた。
噛みきれないほどギチギチに、頬が千切れそうなほどパンパンに、目の前の白米やおかずを詰めた。
反論をしたり、自身の思いや意見を口にすることは烏滸がましいと感じていたし、そんな価値も権利もないと思っていた。
それなのに、身の程も弁えずに湧き出てくるふつふつとした感情に、私はどこまで不良品なのだろうかと苛立ち、とてつもなく悲しかった。
自ら吐いたりはしなかったので、世に言う過食症ではなかったのだと思う。
ただただそのまま、喉を詰まらせて、死んでしまいたかった。
恥ずかしくて腹立たしくて、ひとりぼっちになりたくて、そんな私が唯一出来る意思表示だった。
自分の意見を言うということが、とてつもなく嫌だった。
食べ物に対して失礼だと思った。
口の端からあふれてこぼれおちた米粒を、手でかきあつめて泣きながら再度押し込んだ。
悲しかった。
なんでこんなことになっちゃうんだろう、と思った。
なんでこんなに惨めな姿で息をしているのだろう、と思った。
なんで生きているのかと自問しては、見えない世間や社会に、果てのない懺悔をし続けた。
私は、地獄にいたんだとおもう。
自分で地獄を作り上げて、たくさん自分を虐待した。
思い出せば、今でも涙が出る。
今ならわかる。
もうここは、あの頃居た地獄じゃない。
大丈夫、大丈夫。
今なら、
「どんな事があっても、自分を虐げる必要なんて1ミリもない。」
と断言出来る。
人間は自尊心が低迷すると、ポジティブなものを受け入れにくくなるそうだ。
自分なんてどうせ、と思っている人に対して真正面切って、
「大丈夫だよ!」
なんて挑んでも、おまえに何がわかるんだよと門前払いに終わるのが落ち。
それくらいは誰でも想像がつく。
いかにして、その鉄壁の隙間にもぐりこむか。
まずはそこが肝心。
本当に限界に近い人に対しては、なにをしても無駄であるし、それこそ逆効果になり兼ねない。
「ポジティブすぎるのもどうなの?」
という苦言を呈する人も、似た部類なのかなと感じる。
他人の方針やスタイルに対して、
「私は違うけれど、あなたはそうなのね。」
と受け流す余裕がないというのは、本人の心に問題がある。
なんでもかんでも文句をつける人は、端的に言って、現在満たされていない人なのだろう。
私もそういう状態になったことがあるので、なんとなくわかる。
根本的に改善したいのであれば、腹が立つものにツッコミを入れ続けるのではなく、自分自身と向き合う必要がある。
それには、ある程度安定した衣食住が必要不可欠だ。
だから敢えて万人に伝わる形で、やんわりと日常に埋もれがちな幸せを伝えていけたらと思っている。
ごはんの写真を撮ってSNSに載せるとき、密かにポジティブな言葉を散りばめる。
サブリミナル効果というものは、あながち捨てたものではない。
無意識下で求めているものをなんとなく目にするというのは、一番自然であるし、効果がある。
今日も1日がんばろうとか、私の投稿を見てすこしでも眉間の皺が緩んだらいいなと思いながら、文章や写真の編集をする。
自分のことを見て見てというだけでは、コミニュケーションは成り立たないし、何も広がりをもたないのだなと改めて感じている、今日この頃です。
承認欲求だけのものや人には、時間や気持ちを搾取されるような感覚さえ覚える。
ギブアンドテイクに至るための、コミニュケーション上のキャッチボールにも違和感が見受けられる。
そういう人が嫌いとか良くないとかではなくて、誰よりも当人が一番損をしてしまうのではないかなと思ったりする。
『真実』の歌詞の中にある、
"期待と裏切りを他人の所業であると糾弾する以前の問題が
己の体内に存在するという耐え難い事実から目を背け声高に
己の権利のみを主張し棚に上げるその技術たるや驚嘆に等しく"
とはまさにこの事で、己への戒めでもある。
他者に対して、不穏や不信感を覚えたときには、まず自分が相手に何を期待していたのかを、今一度洗い出す必要がある。
ある意味でそれは、自分の勝手なこだわりであり、わがままなのだと思う。
なにも考えずに自分の都合だけをぶちまけるのは、駄菓子を買って貰えないで泣き喚く幼児と何ら変わりない。
なによりも、自分自身の平穏のために、感情的糾弾は最も避けて通るべき道だと思う。
心も身体も美味しくごはんを食べられる喜びを再確認すると共に、私の経験や感覚、自分をもとに研究した心の動きの法則などが、世の中の苦しい人々のために成り得ますように。
驕ることなく、媚びるでもなく、ただ着実に、等身大の私に出来得る事をしていけたらと思う。
ようやく周りに気を取られずに、作品を作ったり、歌を唄ったりできるようになりました。
昨日は久しぶりの再会兼打ち合わせをした。
生きているうちに、会いたい人に会って、やりたいこと、やっていかなくちゃだよね。
今日もいちにち、たのしんでいこう。
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