コミニュケーションについて。

先週末、携帯電話を紛失した。
お店に落としてきたようで、お受け取りに行き、今は無事こうして手元にある。
昔からよく携帯電話や財布の類いを紛失する。
今年は、鈴木さんのママチャリのカゴに忘れてきたのを含めたら二度目。
全盛期に比べれば、なんてことはない頻度。

初めてなくした時はひどく狼狽えたけれど、そこは起点の利く私の脳なので、ないならないでよくないか、と、文明から切り離された生活を楽しむようになった。
世間がスマホに移行していく中、
「便利過ぎるの、嫌。」
と、ガラケーを持ち続けていた。
とはいえ、昨年までガラケーを使い続けていた鈴木さんほどではないが。
あそこまでいくと、もはや執念を通り越して遺恨さえ感じられる。
TwitterもFacebookも、流行り始めを横目に見ていたら、当時の大学の友人に勝手に登録され、今に至る。
Instagramは、ダブル三兄弟で大勝軒に行ったときの写真を挙げるべく記念に開設したのだったと思う。

携帯なくしましたと報告する度に、バイト先のバーの店長からもういい加減にしろと呆れられた。
オーナーさんは、
「じゅんちゃんは携帯向いてないから、持たなくていいよ。」
とにこにこ言って下さった。
よくわかっていらっしゃる。
バーカウンターでお客さんたちと、伝書鳩の飼い方と通信方法について調べて盛り上がったりもした。
今思えばみんな、私のことを私のまま受け入れてくれる方ばかりだった。
本当に恵まれて生きてきたのだなと改めて思う。
意見や見解を述べることと、相手を否定することはまったくもって違うものであって、私は、前者を難なくこなせる方々のもと、ここまでぬくぬくと育てて戴いてきた。
この感覚と温かさは、一生の宝物だと思う。

携帯電話がない頃、駅前で文庫本を読みながら3時間待ち続けて、来ないなあのソワソワが、心配から焦燥、諦めに色を変えていくあの感じが、案外好きだったりした。
実家に帰ると、留守電に今日いけなくなってしまった旨メッセージが録音されていて、事故に遭ったりしていなくてよかったなあとホッとした。
現代のネット文化を否定するつもりはさらさらなくて、でも、あの頃の方が、心の移り変わりひとつひとつが克明で、はっきりくっきりと鮮やかだったような気がしてならない。
時短を商売にする時代、1分1秒の重みまで軽量化していくような感覚も否めなくて。
あの頃と比較して自覚する事が出来る私はまだしも、今の世界が当たり前になっている子達の心では、一体なにが起こって、どんな感触で日々を生きているのだろうと想いを馳せる。
どちらが良し悪しという話ではなく、より苦しまない思考回路が見つけられたら、きっと生きることもヒリヒリしないで済むのだと思う。
久々にひとりの時間がとれて、頭に練り続けているものをアウトプットしてまとめる作業ができて、とても嬉しい。
人と会ったり、街へ繰り出すというのは、それこそ視覚だけ取っても、インプットするものの方が遥かに多くって。
同時進行で感じ取り、それまでの自分の思想や研究結果に練り込んだり比較したりしていくのだが、やはりその時点での結論みたいなものは、言語化しなければ客観的に把握することが難しい。
最近は、コミュニケーションについて考えることが多い。
なぜ、傷付けようと思ってもいないのに、相違が生まれ、結果的に不和が生じてしまうのか。
趣味趣向の違いを超えた観点や仕組みが、必ず存在していると強く感じている。
どんな方であっても、それこそ、スーパーの店員さんや、道端ですれ違う小学生であっても、ものすごく沢山の気付きを戴ける。
私の勝手な妄想だと言えばそれで片が付くだろうけれど、私は阿呆でも踊り続けていたいし、感じ続けていたいと願って息をしている。
他人の観点は、他人のものだ。
私が狼狽えるには、回路も道理も通らないし、結果、至らないので傷付きはしない。
私も、脳の筋肉がだいぶ鍛えられてきたみたいです。

最終目標は、否定的思想によって視野が狭まっている他者を包み込むような、自ら作り上げた障壁に対し、希望と温もりに満ちた崩壊を起こせますように。
学ぶことばかりの、幸せな毎日です。
相対するその人が、卑屈であればあるほど、愛おしくて仕方がない。
その片鱗に触れるたび、そうだね、つらいね、大丈夫だよ、と寄り添いたくなる。
しかしながら、結果を求めてしまえば、布施では無くなる。
その瀬戸際を今日も、傲慢にはなっていないか?自分の足は地面を踏みしめているか?と確認しながら、自問しては軌道修正をしながら、一歩ずつ。
間違えてもいい。
学校のテストで、丸罰をつけられてここまできたから、みんな間違えた自分を責めてしまう癖がついている。
でも、そうじゃない。
人生において、間違いも失敗も、実は存在しない。
人間万事塞翁が馬と言うように、いくらでも後から覆すことが出来得るし、逆に覆ってしまうことだって、ある。
みんな、真面目過ぎるのだ。
否、真面目の行使は、そこではないだけだ。
本当に真面目に、真摯になるべきところは、本当はもっともっと、目の前にある。

人との不和が生じたとして、
"わかってくれない"
"タイプが違ったのだ"
と諦める前に、今一度、自分の発言や所作、応対について、冷静に振り返るべきだ。
その時の相手の一語一句、目線を含めて、まっすぐきちんと見据えてみるべきだ。
すべての事象には、由縁がある。
ただそれは、ひとつの理由で起こり得るものではない。
原因を探る作業ではなく、可能性を洗い出すこと。
どんなパーセンテージで、どんな作用が起こり合って、この結果となったのかをきちんと振り返る作業が不可欠だ。
だからこそ、第6感までフル稼働して、いま目の前にある、感じ取れるすべてをきちんと丁寧に受け取るべきなのだ。
そうすれば自ずと、自分の渡すべきボールがいかなるものなのか、自然と導き出せる。
優しい弧を描き、相手の手元にきちんと届けられれば、基本的には、すこし間違っていたって、大した問題ではない。
相手がどんな状況であるのかを見ることもせず、ぞんざいな言葉を力任せにぶつけていたら、それが誰であっても、離れていってしまうのは明白なわけであって。
その部分を、より伝わりやすく、万能な公式にすべく、日々勉強しては、反芻しています。
まだまだ、詰めが甘い。
更新も改訂も、死ぬまで終わらないのは重々承知の上、より適した、最低限を目指して。
だれも悪くないというのに、悲しいことが起こるなんて、そんな世界は、もう見たくない。
すこしでも、多くの人が円滑に、穏やかに暮らせるような発明をしたい。
これは、先日の七助での一杯。
ひとり3次会の模様。
熱燗と牛タタキである。
七助は、高円寺北口を出て左へ向かってすぐにある立ち呑み屋さん。
お刺身もめちゃくちゃ美味しいしめちゃ安なので、呑兵衛の皆様は、是非。
相撲の番付表が壁に貼ってあるのだが、その美しさに魅入られてスマホでバシバシお写真を撮った。
大泥酔でそんな奇行をしていたので、奥のカウンターで呑んでいたおにいさんたちに声を掛けて戴き、途中から3人で乾杯。
おつまみを分けて戴いたような。
あの日も、おもしろい1日だったなあ。
出会いとご縁に感謝です。
少し前になるけれど、ひとりきど藤で安定の瓶ビール3本をキメたのち、気分が良いから帰って配信でもするかとふらふら帰路についていた時のこと。
途中、ショーボートというライブハウスがあるのだが、地下への階段に何人かたむろしていた。
時間的に、そろそろ終演の頃合いだろう。
どれどれ、誰が出ていらっしゃるのかなと看板を見たら、おまえの文字を発見。
階段に目をやると、おまえのベースのシュクさんを発見。
酔った勢いで、ダムダム団のじゅんじゅんですー!と名乗って突入。
覚えていていただけて、めっちゃ嬉しかった。
ドラムのたけあきさんもきど藤の常連とのことで、超盛り上がった。
シュクさんが、遥か昔、今は亡き高円寺ミッションズでの私のソロライブを見て覚えていてくれたと知って、飛び上がるほど嬉しかった。
ダムダム団での対バンも楽しみにしていて下さったそうで。
大好きなシュクさんに、そんな風に言って戴けるなんて、夢にも思わなかった。
なんてこったい。
音楽、続けてきてよかったわあ。
なんだかんだ居座って、また絶対対バンしましょうね!とご挨拶して、帰宅。
気付けば、配信は厳しい時間になっていた。
いや、今日はもう、胸がいっぱい、心がいっぱいだから、このままホクホク眠るぞと決意。
缶ビールと昼間に買った新鮮な刺盛りで一杯やって、気付けばこたつで爆睡。
ははは。
本当、期待を裏切らないですね。
今月は、そんなうれしい出来事もあったりしました。
先日所長が、おおやまちゃんにプレゼントと言って、皮の小銭入れを下さった。
めっちゃくちゃ可愛いんですけど。
この小憎たらしい表情、何度目があっても吹いてしまう。
ドナルド、では、なさそう。
最高か。
またひとつ、いつでもハッピーになれるアイテムをゲットしてしまった。
なくさないように、大切に使おう。

12月も残り、3週間とちょっと。
ここまで幸せしかないので、このまま幸福最高値を更新し続けようと思います。
これから、お部屋をすこしお掃除しようかな。
今年は大掃除もバッチリやりたい。
皆様も年末へ向けて、よい日々を過ごされますように。

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