『キャスト・アウェイ』を観た。〜真摯に生きるということ〜

嬉しくて楽しくてぎちぎちスケジュールだった今月。
昨日は予定が急遽なくなったので、滞っていた用事を済ませたり、自分のための時間を過ごせた。
ひとりの時間、ほんとうにたいせつ。


いわゆるドタキャンに腹を立てる人もいるけれど、自由な時間を戴いたのだと思えば、ありがたいなあと思えるよね。
会えなくて残念だったな、とは思うけれども、存在しない未来に憂い、苛立ちを募らせるのは、現時点の自分の心を吹き溜まりにしてしまうような、そんな気がする。
自分はいま、何によって、何を起因とした感情にとらわれているのだろう、と思い巡らせる練習は、とても大切。
あらゆる可能性を考えること、それが突拍子もないものや、あり得ないでしょと笑ってしまうものであればあるほど、そのまま自分の心の余裕になる。
そのためにはまず、こだわりを捨てるべきだ。
これじゃなきゃダメだとか、こうあるべきでしょという傲慢な自分に気付くのが、まず一歩。
そして、自分が自己形成の要と思い崇めている何某かを、手離してみる。
形だけのアイデンティティを放牧したとき、ようやくあなたの輪郭があきらかになるのだと思う。
そこには、駆り立てられるような不安も、恐怖心もない。
お金とか、容姿とか、能力とか、比べて悲しんだりしなくていいの。
自分の、本当の自分の肌や輪郭や心で視界を100%にして、ああこうなっているんだね、と感じ取るだけでいい。
良し悪しは、生命体そのものに適応すべきものではないのだと、今一度、思い出す必要がある。
人間社会という避けられない生きる術に、脳を侵されてしまう。
ちゃんと気付かないといけない。
みんな、なんにも入っていない箱を、爆発するから危ないからと、怯えて抱えて離さない。
私もそうだったし、気を抜けばまたそちら側へ転がると知っている。
だからこそ、練習する。
ああ、いま間違えたな、と、軌道修正する。
身体と同じで、心も動かさなければ、衰えて退化して、些細な所作も億劫に感じ、悪循環に陥っていく。
そのシステムに気付かないで、他者や世間を恨んだり、憎んだりして採算を取ろうと躍起になる。
奪われてしまう、と、攻撃的になり、周囲からどんどん孤立していく。

ネガティブな思想や思考回路はストレスを増幅させ、細胞を濁らせ、精神疾患、肉体にも悪影響を及ぼしていく。
その最終地点が、病なのだと最近つよく感じる。
一概には言えないけれども、がん、認知症の精神疾患が、その代表格なのではないだろうか。
矛盾してしまうかもしれないけれど、心の浄水場を整備して生きていたら、いざそれらの病に伏せっても、寿命が訪れても、不慮の事故に遭っても、笑っていられるのではないだろうか。
「ラクではなくても、楽しむことはできる」
という言葉の通り、結局は自分自身の受容体が鍵を握っているのだろう。
なるべくニュートラルな状態で在るべく、今日も陽の光を浴びて、生きることをまっすぐにしている自然に触れ、感謝を忘れずに。
私も、いつでも転ぶ可能性のあるひとりの人間で、だからこそ謙虚な心を忘れずに、一歩ずつ。
モスバーガーで展開されているリラックマセットに挑戦してきました。
セットメニューにマグカップが付いてくるという、今キャンペーン。
カップは2種類あって、リラックマと、コリラックマ&チャイロイコグマの絵柄のもの。
どちらかは選べないので、まさに運任せ。
私はコリラックマ推しなので、後者が欲しかった。
一発で当てました。
強運か。
とくとご覧あれ。
リラックマのリュックサックに、リラックマのジャンパーで、リラックマセットを購入する私。
店内で気付いて、ちょっと恥じらいました。
かわいいからいいんだもんね。
久々に食べたモスバーガーは美味しかった。

私の初めてのアルバイト先は、横浜元町のモスバーガーでした。
現在は閉店してしまって、跡形もない。
モスは接客指導がきちんとしているから、初めてのアルバイトには良いのだとか。
なぜか職場には内緒で幼馴染2人とそれぞれ応募して、高校が終わった後の時間、働いていた。
2人とはシフトがあまり被らず、たまの土日に一緒になるくらいだったが、それはそれは忙しかったのでとくに話をする暇もなかった。
採用のご連絡を戴いて出勤初日、店長さんからお話をされた。
「大山さん。ひとつのご注文は、そのお客様の1日3回あるうちの、大切な1回に当たるんですね。」
眼鏡をかけてにこやかな店長は、どこかケンタッキーフライドチキンのカーネルおじさんに似ていて、内心、モスなのにケンタってちょっとウケると思いながら話を聞いていた。

その時の店長のお言葉は、当たり前だけれど、たしかにすごく大切なことだった。
店側の人間にとっては数多くの注文のひとつだけれど、お客様からしたら、
「今日のお昼は、何を食べようかな。」
と悩んで選んで決めたものであって。
味もだけれど、そのときの応対ひとつで、1日のうちの一食が、残念なものになり兼ねない。
もっといえば、その一食によって、その1日を、良かったなあ、幸せだったなあと感じて戴くことも出来るのでは、と、私は思うのです。
これはすべての職業に言えることであるし、最近は、商売ではなく日常すべてのコミニュケーションに通ずることなのかもしれない、と感じています。


仏教では、盗むこと全般を悪しきものとしていて、中でも、時間の盗みは一番の大罪に値します。
時間を売ってお金を得ることはできるが、いくらお金を積んでも、時間は返ってこないのだから、当たり前といえば当たり前かもしれない。
おまけに、いつまで猶予があるのかも、わからない。
雇い主から給与を戴き、お客様から対価を支払って戴くという、目に見える等価交換によって、程よい緊張感を持ち、生きていくために必要な仕事をこなして生きている。
人間という生き物は基本的に、集団での生活を破棄すれば、生命維持に支障をきたすのです。

でも、そもそもの根の奥まで掘り進んだら、最終的に、残りの時間を、どこに費やすのかに集約されるのではないだろうか。
いつまで続くかわからない、という感覚は、明日終わるかもしれないという経験がゼロに近い赤子の時期を通り越せば、怠惰で退屈で、持て余すものとなる。
"明日終わったらどうしよう"、という気持ちに、一分一秒真正面から相対するのは、精神が疲弊し保たないから、というのもあるのだろう。
心身の防衛本能も、勿論あるのだと思う。
でも、時間は有限なのだ。
残り、何十年とあるのか。
はたまた、余命幾ばくであるのか。
そういう時間を、私に割いて下さっている。
そのひとつひとつに感謝して。
自分なりに真摯に、より彩りのある時間を、すべてのあなたと共に刻むことができるようにと、学ぶことばかりの毎日です。
今日は、ゲオで借りてきた『キャスト・アウェイ』という映画を観た。
主演のトムハンクス氏は大好きだし、とても有名な映画なのだけれど、私は初めて観ました。
いま読んでいる、ニューヨークの心理学者さんの本の『孤独について』の項目で出てきて、観てみようと借りてきた。
ネタバレになってしまうので深くは触れませんが、といっても、多くの方が拝見しているのだろうと思いつつ。
要約すると、孤独の解消は、最悪、対、ヒトでなくても成り立つのだ、ということ。

私は3歳の時、家族で行ったディズニーランドで、何が欲しい?と聞かれ、棚の上の方のクマのプーさんのぬいぐるみを指差し、買ってもらいました。
そのプーさんのぬいぐるみとは、今でも毎晩、一緒に寝ています。
トレードマークの赤い服はとっくに引き剥がしてしまったし、寝ぼけて"乾いた米粒がついているなあ"と勘違いして、革製の眉毛をむしってしまって、不恰好だったり。
肌も、当時のフカフカとは全然ちがう、ゴワゴワ状態。
それでも、私が不安に駆られた時、苦しくてやるせなくて泣きじゃくる夜、いつもいつもそばにいて、にっこり笑っていてくれていました。
私の涙を、何リットル吸収してくれたのだろう、というほど、大切な大切な、存在。

だれかを、なにかを、大切に想う気持ちが生まれたとき、きっと人は、自分と相対することを余儀なくされるのだと思います。
あなたのために、なにかのために、そう思う時、雇い雇われの枠組みを超えて、本当に慈しみ、同時に自分自身も、尊いのだなあと、きちんと実感を持って感じられるのではないでしょうか。
私も昔は、なんじゃそりゃ!って思っていたのだけれど。
今は、ああ、そういうことだったのだねえ、と、縁側で梅昆布茶をすするような心持ちで受け止め、包み込むことが出来得る。
でもそれも、今の私、という話なので。
また明日にはてんで違って、もっとわかったり、わからなくなったりするのでしょう。
本当に、たったいまの、私。
こたつに頭突っ込んだ状態で目覚めたや。
なにしているんだろ。
わはは。

映画『キャスト・アウェイ』での名言にあるように、私たちは時間というものに背を向けられない運命なのでしょう。
だからこそ、"今"、を何より、鮮烈に。
きちんと、心の感度を、風通しを最大限に。
1日として、おんなじではない今日を過ごしてゆこう。
真摯に生きていさえすれば、次なる縁は必ずやってくる。
私は、幸せで仕方がないです。



いつも日記を観て下さっている方もですし、こんな辺鄙なところまでクリックしてくださった方にも、本当にありがとうございます。
私は、私以外できないぶきっちょなので、ああまたじゅんじゅんはじゅんじゅんしているんだね、と笑って戴けたら本望です。
あしたもわらって、いきていこう。

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