SNSについての考察。〜ダムリハでした〜
なので、誰かが私について書いてくれていても、全然まったく、気が付かない。
いつも偶然見つけるか、先方がタグ付けという“あなたの事を書いていますよ”の通知機能を使ってくれて気付く、というところ。
生誕や自主企画の後にだけイベント名で検索して、お写真を拝借したり、楽しんで戴けてありがたやだなあと噛み締める。
ファミリーマート横浜本牧店に勤めていた大学生の頃、同じ準夜勤の先輩が声優さんの学校に行かれていて、どこの執事カフェですか?という爽やかダンディな声色で、
「いらっしゃいませこんばんはー!」
と言っていた。
私も負けじと、キャピキャピのアニメ声で応戦。
カオスな空間を作り出しては爆笑し合うという、最高にハッピーな職場だった。
その頃、"ファミリーマート 横浜本牧店 店員 アニメ声 可愛い"で検索をかけた。
当然ながらなんの投稿も引っ掛からないわけだが、その時の私は、おかしいなあと純粋に思った。
あんなに楽しかったからひとりくらい書き込んでいるのではと思った。
例え楽しいと感じても、それをインターネットに投稿するか否かは、また別の話なのだと気付いたのはもう少し経ってからだった。
そんな一件もしかり、自己顕示欲の神経が無い訳ではなさそうである。
当時、おかしいなあ、とは思ったが、なんでだよ!とは思わなかった。
いわゆるかまってちゃんと類される人は、ここが後者なのかもなあと思ったりもする。
そういう気持ちに任せてSNSを手癖のように見ていたら、そりゃあしんどいよなあ。
それこそ中毒に掛かってしまうと思う。
SNSって、普段会えない方が楽しく暮らしていると知れる素晴らしいものだし、喜びや気付きの共有に利用するのにとてもよいものだと思う。
けれど、一方でそれ以外の部分も山程あって。
それこそ匿名をよいことに、文句や心無い言葉ばかりを綴る人だって、いっぱいいる。
自尊心ではなく、自己顕示欲をムクムクと育ててしまう仕組みも隠れていて、それらに気付かずまともに取り合っていたら、それこそ気を病む媒体だと思う。
現代の私達には幸い、自分の眼と心の栄養となる言葉を、選ぶ権利も、選ばない自由もある。
文字に限らず、音楽や絵画、それこそ、対峙する人間だって同じこと。
手入れや精査をしなくても成り立ってしまうから、気付かないだけで。
無農薬有機野菜だけを買い求めるようにギスギスと警戒して選ぶ必要は無いと思う。
けれども今一度、自分の環境や選択に目を向け、もし違和感や良くない予感を覚えるものがあるのならば、少し距離を置いてみるといい、と経験上私は思う。
「だって仕方がなかったんだ。」
「でもそうするしかなかったじゃん。」
と、後になって言ったって、誰も責任はとってくれないし、過ぎた時間は戻らない。
私たちは誰しもが、少しずつ少しずつ変化していく。
成長したり衰えたり、学んだり、忘れたり。
そういう関係のなさそうな些細な部分も、自分が変化していることに変わりはなくて。
だから関係性だって、気付かないうちにどんどん変化している。
相手も変化しているのだから、尚のこと。
SNSの話に戻るが、昔々、あきらかに私のことだろうなという悪口が投稿されているのを見つけて、
「人の心の内を覗き見るって、こういう事だよなあ。」
としみじみ思った。
家族や恋人など、多くの時間を共有していく存在ならば、ある程度ルールを擦り合わせるために踏み込まざるを得ない。
しかし、思い通りにならない現状を嘆き、万人を自分に適応させたい気持ちに拍車を掛けるのは、とても危険な事と思う。
ましてや、それを全世界に発信してしまうなんて、
「俺はジャイアン!ガキ大将!だから俺に合わせろ!」
と自ら恥を晒しにいくようなもの。
もしあなたがSNS上での誰かの攻撃的発言にドキッとしたら、
「私はいま、ジャイアンに絡まれている。」
と唱えて心を整えてみたらいい。
悪口を言われてショックを受けない人はいないが、問題はその後、どう落とし込むのかだと思う。
私は、自責ではなく、慈悲に変換するようにしました。
「この人は、スーパーのお菓子売り場で駄々を捏ねる子供と一緒なんだ。自分のわがままに翻弄されて、辛かろうな。後で冷静になったとき、思い返して恥じるのも、また辛かろうな。」
といった具合。
さらに、手を汚してまで、私のことを考えて発言してくれて、ありがたいなあ、とも思う。
これが悪口ではなく人殺しだとしたら、私を殺して、刑務所で罪を償ってくれているんでしょ?
そこまで私の事を考えて、その上、前述のような罰も背負ってって。
すごすぎるでしょ。
でも、本人は心底辛いだろうなあと思う。
好きでもないヤツの為に、手を汚して罪を被るんだもの。
そういう方こそ、来週から始めるじゅんじゅんセラピーで手当てしていけたらと感じます。
悪態を吐くというのは、その人の身体が悪態工場と化しているからで、きちんと浄水場に建て替えられたら、悪態なんて出てこなくなるんだよね。
そうなりたいと思えば、誰だってそうなれる。
最近読んでいる本に、
「同じ水でも、牛はミルクに、蛇は毒に変えてしまう。」
とあって、まさにそうだと感じた。
自ら吐く息は、なるべく澄んだもので在りたいと思う。
悪口は、かならず誰かが見ているし、かならず自分へ、別の形で返ってきます。
言いたくなってしまったら、SNSに書き込む前に、じゅんじゅんリラクゼーション整体にご相談を。
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