『めぐり逢えたら』を観た。

ずっとお借りしていた映画を観た。
心身がガタつくと本も読めなくなるし、映画や作品を観ても、きちんとキャッチ出来なくなる人間。
20代中盤から30代に上がる頃まで、本当に文字が読めなかった。
本は好きだったので、昔読んで好きだった本を中古で買ってきては、好きな部分を音読したりした。
今思い返すと、作品や娯楽にきちんと向き合えるか否かは、非常に重要な心のサインなのだと思う。
本が読めない、楽しめない、好きなのになんとなく出来ないことが増えたら、一度立ち止まってみる必要がある。
もしかしたら、その時自分はとんでもなく危険な状態かもしれない。
荒波のような9月冒頭をなんとか乗り越え、まさに時がきただろうという感じで、ホットココアを飲みながらゆっくり鑑賞した。
ラブロマンスの類いでは珍しい構成で、現実味の無い映画ならではなシーンもたくさんあるのに、冷める事なくすっと感情移入できるし、きちんと随所で素敵。
監督もそうだが、各俳優さんの、ロマンチックを素敵なまま当たり前に感じさせる説得力に、脱帽。
トムハンクスもメグライアンも、素敵が過ぎる。
セリーヌディオンのデュエット曲も、めちゃくちゃ合っている。
途中、男性と女性とでの価値観の違いを揶揄するようなシーンに、激しく同意してしまったりもした。
まったく違う生き物であるのに、いや、だからこそ惹かれ合うのかもしれない。
運命を形にしたような映画でした。
存分に味わえたので、私はいま心的に安全地帯に居るのだという自覚も出来ました。
いやはや、映画という文化は、素晴らしいですね。



ここの所、恋愛の相談や話を聞く機会が多くあった。
とても良いご報告もあれば、悩みや愚痴、悲しくてやりきれない気持ちを、どうしたらいいのかわからないまま話してくれるひとも、中にはいて。
「私、馬鹿みたいだよね。」
と言いながらも、耐えられない気持ちや葛藤を打ち明けてくれて。
そんな時、不相応かもしれないけれど、私はとても喜ばしい事だと感じる。
その人の自己矛盾を側から見て楽しんでいるわけでも、全力で悲しい気持ちを笑うつもりでも、全く無くて。
不恰好でも恥ずかしくても、自分の持ちきれないものを投げてみたり、ほっぽってみたり、そういう場面に立ち会えたというのは、ありがたいことだと勝手に思ってしまう。
だって、もう限界!と爆発したり溢したりするのって、すべてひとりで抱えよう抱えようとがんばってきた人が、それまであった苦しい現状を打破したって事なんじゃないだろうかって。
しょうがなくであっても、自分で自分の殻を破ったという事であり、新しいチャンスの瞬間なのかな、と。

私は、その時の自分に正直に、常に自分を生きる人が大好きだ。
そして、全力で喜んで、全力で悲しんで、時に自分さえ憎んだりしてしまう女の子が、大好きなんだ。
男の人がキライな訳では勿論無いし男性陣には申し訳ないが、すべての女の子には、なるべく笑っていてほしいと願っている。
そのためならば、たくさん泣いていいし、いっぱい恨んでいい、とさえ思う。
自分に一生懸命であれば、きっとそれは間違いじゃない。
でも、出来得る限り、自分で自分を無駄に責めることはしない方が良い。
人を憎むことは、自分をどんどん貶めてしまうから、はやめに脱却した方がいい。
そういう気付きやノウハウは、私が言葉であれこれ伝えても、本人の実感を伴い落とし込めなければ、何の意味も意義も持たない。
だからたくさん、一生懸命に生きて欲しい。
疲れた時やしんどい時には、ボヤいていい。
泣きながら美味しいケーキをほおばってもいい。
私をその場所のひとつに選んでくれたとしたら、偶然にでもその場に立ち会うことが出来たなら、こんなにもありがたいことはない、と思うのだ。

私に出来ることは限られているし、側から見れば俯瞰してアドバイス出来ているようでいて、それは人様の事だからで。
私だって自分の事となると、いつだって大慌ての、てんやわんやだ。
正解なのか、間違いなのか、そもそもそんなものは無いというのに、有りもしない石橋を泣きながら叩くような愚行ばかりする。
思考の悪癖だって、もうずっと昔から分かっているのに、全くもって上手くいかない。
もしも自分がしんどい時に、
「おめでとう!あなたは今自分の殻を破ったのよ!」
なんて言われようもんなら、うるせー!!と怒鳴り返してしまうだろう。
いや、小心者だから怒ることも出来ず、弱々しく微笑んで、なんだこいつ知らんわ、と思うかもしれない。
勿論相談を受けている最中、そんなことを面と向かって言わないし、想いを理解しようと必死で、喜ばしい類いの想いなどそもそも頭に無い。
なにも言わずに我慢し続けることも出来たはずなのに、恥を承知で弱音をこぼしてくれたというのは、その先の可能性を少しでも含んでくれているということなんだと思う。
私は、自分がつらいときに、味方でいてくれる、心で共鳴してくれる人がいて、本当に救われた。
私がだれかを救うだなんて、烏滸がましい考えは毛頭無い。
ただただ、一生懸命迸る人を目の前にして、生きていてくれてよかったなあと、愛しいなあと、ありがとうと思う。


先日、ことりちゃんと久し振りに再会した。
私が最近、少食ついでにストレッチしまくって身体を引き締めているのだと話したら、
「ええー!じゅんじゅんさん、片岡鶴太郎みたいになっちゃうの!?」
と言われた。
結構久方振りだというのに変わらないことちゃんの思考と言葉のチョイスが、なんだか懐かしくも嬉しかったりした。
よくわからないのに、よく笑った。
元気そうで安心した。

頭の中や身の周りの整理整頓をして以来、あらゆるものや人が、愛おしくてたまらない。
これは平穏への道であるのか、なにかおしまいへの予兆であるのか。
創る人間として在るべき足元のような実感があるし、私はあらゆる事象を引き合いに、そういう状態に至るもしくは陥ることをわざと避けてきた。
不真面目に真面目をしてきた。
途方もないのが分かっているから、わざと逆のことをしてきた。
いよいよ本題のスタートラインに立つ決意が出来たのかもしれない。
不思議と、武者震いは無い。
きちんと、生きることと向き合うことを始めよう。

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