最近のストレッチ事情。

先週ストレッチのノルマを2日間ほどサボっていたので、以前と同じメニューをやったら、かなり疲れた。
負担に感じて辞めてしまわないように、負荷の少ないものからリハビリしていこうと、分数の少ないものを選んで実践。
これが意外と身体に合っていたようで、昼寝をしたら通常では有り得ない量の汗をかいた。
シャツも寝巻きのズボンも、例え話ではなく、びしょびしょ。
洗濯カゴに放り込んでおいたシャツが1日経って触ってもびしょびしょで、あわてて洗った。
身体をほぐしたことにより、代謝が爆上がりしたらしい。
見様見真似する事に必死だった当初とは違って、きちんと筋肉の伸びを感じながらできるようになったのも、大きく関係していそう。
今回私が汗だくになったストレッチは、こちら。
このズボラストレッチというチャンネルに、いつもお世話になっています。
深井先生の上げて下さる動画はどれも分かりやすいし、サボっても良いですよー、と声をかけてくれるので、モチベーションもヤル気も爆上がりする。
自分がつらいと感じる時に、
「つらいー!」
と声に出してくれるので、わかるー!と思うし、その姿がちょっと笑えてしまって、残りの5秒を乗り越えられたりする。
こういう、人に寄り添えて、気持ちを前向きにできる人になりたいものだ。
meDag.の猫さんもズボラストレッチをやっているとのことで、この間楽屋で盛り上がった。
最近は、座っている時や作業中に小分けに取り入れてみたりもしています。
今日測ってみたところ、ウエストは2.5センチ減した模様。
もっと減っていると思ったので、ちょっと残念。
太ももに関しては、0.5センチ減。
やはりな。
私の極太大根脚は、手強い。
諦めませんからね。
毎日、ズボラにがんばります。

朝のお散歩とストレッチをし始めてから、負のループに捉われ続ける時間が減ったように思う。
自分の身体が以前よりも締まっていくのを目にすると、やっぱり嬉しいし、気持ちも上がる。
「筋肉は裏切らない。」
と誰かが言っていたが、本当にそう。
今までにも走ったり、ジムで筋トレしたりしてみたが、どれもが始めるにも続けるにも、ちょっとがんばらないといけなかった。
結局長くは続かない、というのがいつもの流れ。
その点、ストレッチは素晴らしい。
筋肉が伸びるのは痛いけど気持ちいいし、耐えられないほど辛くもない。
和田堀公園あたりで、休日の日中、みんなでストレッチをする会を企画するのもありかもと思った。
芝生でごろごろしながらマインドフルネスする会とか、ストレス解消されて免疫も上がりそう。
以前、クリスタルボウルという水晶で出来た楽器を聴く機会があったのだが、奏者の方が海辺でクリスタルボウルを聴く会をやられていて、すごく惹かれた。
皆、浜辺に寝そべり、大自然に身を委ねて演奏を聴くのだという。
クリスタルボウルの構成物質には、人間の骨と同じリンなどの成分が含まれていて、振動により共鳴し、ヒーリング効果があるのだという。
クリスタルなだけに割れやすい上、ひとつずつが、うん十万円する。
まだ新しい楽器のひとつで、私も拝聴したのはその1回きりだった。
その時はライブハウスで座って聴いたのだけれど、不思議な振動音に、猛烈な眠気を覚えた。
なんだろう、温かくてずっしりとして、水の中にでも誘われる、というような。
自然と対話する機会が、それに似ているような気がする。
眠ってしまっても良いし、むしろリラックスしている証拠で、身体には届いているからと言われて、それもなんだかほっとしたのを覚えている。
大自然の中に出向いても、心や身体の準備が整っていなければ、なかなかそれに溶け込んだり感じ取ることは難しくて。
その橋渡しをしてくれるって、素晴らしいなと感じた。
鳴らし方のよく似たシンギングボウルという鉄製の楽器もあって、そちらも大好き。
いつかひとつ欲しいなあと思いつつ、個体差があるため、これだという子に出逢う時まで保留にしている。



朝の散歩では、クラシックを聴きながら近くのお寺まで歩く。
周辺には大きな木が多数あり、一本一本表面に触れたり、よくよく観察してみる。
予備校時代に流木などのモチーフや課題を出され数えきれないほど描いてきたが、木の種類によってこんなに違いがあるなんて気付かなかった。
ソメイヨシノは、漢味のある力強い凹凸に、がっしりとしたボディ。
楠木は出身小学校のシンボルだったので、見覚えのある木目が懐かしい。
ザクザクとした縦皺の杉の木に、神秘的な印象さえ受ける真っ白で滑らかな肌をしたプラタナス。
アカマツはソメイヨシノとまた違った猛々しさ、荒々しさを持っていて、それでいて先端の葉は、線香花火のように繊細且つ優雅。
私は一体なにを見て、木を描いていたんだろう。
そもそも、木の全体的なフォルムや、枝葉を描くのが苦手だった。
野外スケッチの際、あちこちに生えた木々は、私にとって捉え所のない物体に見えた。
どこが顔なのか、腕なのか。
なんなのかわからなかった。
有機物であるのに、無機物に相対したような、掴みどころのない戸惑いがあった。
切断され、家具の一部となった木目を描くのは得意だった。
人間の微細な脈を覗き見るようで、それらをなぞるだけで、自ずと木目と相成った。
その違いはきっと、受け取る側の私にあったんだろう。
描くことができるかは、その対象にときめきを覚えられるか、彩りを感じ得るか否かだと思う。
それは無理くり掘り出すものでも、鍛錬するものでもない。
あの時、描きたくもない木々から目を逸らし避けてきた私は、案外間違っていなかったのかもしれない。
時がきたら、きちんと対話できるようになるから、その時でないのなら、無理に近付く必要はないのだと思う。
1日の始まりに、一本、その木の特徴を味わい、触れて、感じ取る。
それが最近の楽しみのひとつ。
身の回りの自然に気付いた時、しゃがみ込んで実際にこの手で触れてみる豊かさは、固定概念を打破する一種の遊びであるのだろう。
脳に縛られ過ぎないよう、のらりくらりとアソビをいれつつ、今日も息をしていくとする。

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