200回目の日記〜ごはん、文字化、匿名性〜
偶然気が付いたのだが、これが200投稿目の日記。
ちりもつもればというやつか。
飽き性の私がこんなに長く続けられることなんて、なかなか無いのでは。
実はざっくりと項目を設けているのだが、199投稿中、106がお料理の投稿。
今後も食べ物の話題が半分以上だと思われる。
さすがは食いしん坊。
今日の朝ごはん。
THE、日本の朝食。
ごはんの量は結局、白米玄米押麦ミックスの一食120gに落ち着いた。
少ないかなと思ったけど、慣れると丁度良い。
鯛はやはりうろこの処理をすんなり出来る様になりたい所。
皮が好きなので食べられずやきもきした。
熱湯を掛けてからだと処理しやすいらしいので、また近々挑戦したい。
あらは激安だからね。
細かい骨を避けながらちまちま食べるのも意外と好きだったりする。
あら汁で避けた骨がカッコよくて洗って乾かした。
左は関節部分が動く。
エヴァに出てくる使徒サキエルの脇のところみたいでめちゃくちゃカッコいい。
生命の神秘だ。
右の斧みたいなのは、頭の部分の表面が指紋の様になっている。
なんでこんな形になるんだ。
特に何に使う予定も立たないのだが、眺めているだけで至福を覚える。
美的感覚を満たすというのは、人間の悦びの一つだな。
小さい頃よく、気に入った石を拾ってきたな。
拾ってき過ぎて怒られたな。
大学の骨格についての講義で、ケンタッキーの一羽まるごとセットの骨を丁寧に食べて洗って標本みたく組み立てたという先生の話を聞いてグッときた。
すらりとした女性だったが、なんというか不思議な魅力のある先生だったのを覚えている。
90分の講義は飽き性の私には長過ぎて、講堂のように広々とした講義室の一番後ろの席でウイスキー入りのコーヒーを呑んだりもした。
若さ故の愚かさとはこの事か。
お昼ごはんはポテトのピザトーストとサラダとラッシー風ドリンク。
ピザトースト美味しいよね。
こいつを作る時は、マヨネーズを罪悪感無くかけられる気がする。
バターを丸齧りしたり大袋のポテトチップを毎日食べたりする訳ではないので、調味程度での心のストッパーは外していきたいなと思ってもいる。
最近顆粒のだしの素を使い切ったので新しく買ってきた。
私はいつも、ジップロックに乾燥剤とコンビニのプラスチックスプーンと一緒に入れている。
使う時にすくって入れる。
小分けタイプはすぐに使い終えてしまうし、かといって大容量タイプだと使い切れず湿気たりしてしまう。
結局、100円均一で売っている90g入りのだしの素に落ち着いた。
乾燥剤は見つけたらサランラップにくるんで取っておいて使う。
乾物などと一緒に入れておいたり意外と重宝するので、捨てない方がいい。
昨日無善寺に向かう途中に咲いていた。
なんの花かなあ。
一つの木に、桃色と紅色の花が咲いている。
さっきお買い物に出たが、暑くてベストを一枚脱いだ。
ようやく、春がきたのだな。
ホームページを新しくして、せっかくだからと始めた日記。
以前のホームページでも書いてはいたが、不定期で抽象的な日記だった。
私はおしゃべりが苦手だ。
お話しするのは得意な方だが、自分の考えている事をうまく伝えるのが苦手だ。
順序があって、組み立てがあって、結論があって、それをおしゃべりで伝えるのが心底ヘタクソだと思う。
昨日MCで話していてすごく思った。
これが演説や唄となると、するする表現できるのだが。
多分、演出を含めてようやく、私の伝えたい事が提示出来たと感じるのだと思う。
おしゃべりがめちゃくちゃうまい人だって100%伝え切れる訳ではないのだし、日本語が大層不自由な訳でもないのだから、そんなに気にする事は無いと分かってはいる。
それでも、人に会う時間は限られていて、伝えられる流れもほんの少しの隙で、
「ああ、今日も伝えたかった事が手の中に残ったままだ」
と思いながら帰路に着くのがいつも歯痒い。
私の完璧主義的な部分が大きく関係しているんだろう。
人に話をするという行為は、自分自身の思考の再確認や認知でもある。
口が勝手にするすると言葉を紡いでゆき、そんな事を考えていたのかと自分でもビックリしたりする。
そうやって、ひとりきりでは出来ない心の空気の入れ替えをしているんだと思う。
文章を書くという行為は、私にとってとても自由な事である。
時間に縛られず、好きなように構成し、添削して提示出来る。
言葉を選んだり並べたりするのが好きなので、文字化する行為は喜ばしくさえある。
一種の趣味かもしれない。
人に話をする時と同じく、日記を書くと、お前こんな事考えていたのかとビックリする。
自分の脳味噌を占める割合を知る良い機会でもある。
私の場合は、食べ物が5割以上。
あと理屈っぽい。
絵に描いたように、みんな幸せになったら素敵だみたいな思考パターンがある。
こういう事を客観的に眺められて良かったと思っている。
なるほど、私のような人間が鼻に付くという人も、たくさんいるだろうなとも思えた。
この感覚は、そういった他者から攻撃的発言を受けた際に重要なクッションになるとも思う。
己を多角的に捉えるというのは、大切な事だ。
余裕とある程度の視野の広さがなければ出来ない。
今私は、焦ったり戸惑ったりせずに思考することが出来る精神状態だ、と分かるだけで大収穫である。
日記は、SNSなどと比べると少々不便だ。
見ようと思って開かなければいけない。
だからこそ、ここを覗きにきてくれる人は、どんな理由であれご縁があると思っている。
そして、私の日記を読んでくれた方は、実際に会って話した時の空気の共有率が2%増くらいになっていると思う。
りなちゃんが去年の緊急事態宣言の期間に毎朝ツイキャスのラジオ配信をしてくれていたのだが、それを聞いていて、すごく実感した。
そんな事考えているんだ、とか、それ私もすごくわかる、とか、普段会っている時よりもよりディティールが細かく感じ取れた。
わざわざ話題に出すほどでもない事柄や考えが、何よりその人を浮き彫りにするよなと思った。
その小さなひとつひとつに、その人自身が本当に現れる。
他愛もないような日記でも、私という個人がたくさん滲み出ている。
少し別の話だが、匿名性に色を塗って1人1人を個人として感じ取っていくのが、私の昔からの課題のひとつでもある。
その人に大切なお母さんがいる、昔から仲良しで可愛がってくれるおばあちゃんがいると気付けたら、街中で偶然ぶつかってしまっても、すみませんと言って会釈出来るんじゃないかと思っている。
たとえぶつかって舌打ちされても、ああこの人は今朝鳩のフンに命中してしまったのかもしれないと思うと、ムッとする事なくお気の毒にと心で手を合わせられるのではないか。
匿名性が全てを駄目にしているんだと感じた頃があった。
匿名という使い方には、良し悪しがあると分かってはいる。
ただ、他者を自分と同じく血の通った人間なのだと認識出来ないのは、あまりにも乏しい事だ。
広がりが無ければ余裕もなく、その結果攻撃的陰湿的思考に向かい、自分の心も枯らしてしまう要因になり得る。
私は、穏やかでいられる勘違いなら進んでしたいと思う。
綺麗事だと嫌う人もいるとは思うけれど、私は昔からそうやって生きてきた。
勿論世界中の人を先のように想定するのは難しいけれど、なるべく殺伐とせずに生きていきたいから、手の届く範囲内で、大切に解釈して、情報を得ていきたい。
身近な人への興味や関心は、知らない他者への想像力の補強にもなる。
夕方仮眠を取ってしまい、遅い晩ごはん。
豚こまが安かったので買ってきて、たまねぎと炒めて焼き肉のタレをかけた。
美味しい。
食べたいものを食べるのだぞと自分に言い聞かせる。
お豆腐は柚子胡椒で戴いた。
柚子胡椒大好き。
今日も三食美味しく召した。
全ての食材と携わる方々に感謝。
ごちそうさまでした。
私の日記を覗きにきてくれる人がいるのは、喜ばしい事だ。
私の努力どうこうの部分ではないから。
読んでくれよと頼むものでもないし。
特に宣伝しようとか多くの人に見に来て欲しいとかは無くて、おしゃべりが苦手な私の意思疎通の潤滑油になったらいいなと思っている。
大切に思ってくれる人達と、きちんと目を見て話すような事がしたい。
いつまであるかわからない人生も、有限である事だけはわかっている。
美味しいものを食べて、たまにみんなで楽しい時間を過ごして。
これからもそういう事をしていこう。
やっと眠気が訪れた。
おやすみなさい。
0コメント