シュクメルリカップ麺とリゾット。

昨日ヘアブラシのお手入れの最中、右手人差し指の爪の間にブラシの毛が刺さってからずっと痛い。
熱もってる感じがするので、結構深く刺したよう。
ジンジンする。
はやく治って欲しい。
私の髪はえげつない長さなので、同じ本数抜けても一本の威力がすごい。
ヘアブラシが速攻で毛だらけになる。
今までヘアブラシをヘアブラシで擦り合わせて毛を掻き出していたのだが、キャンドゥで専用クリーナーを発見して買ってみた。
細くてしっかりめの鉄線が熊手のようについていて、しなりもよくて掻き出しやすい。
新品みたいだ!とはならないけど、かなり良い。
そして毛よりもホコリの多さにビックリする。
最近はこまめにクリーナーしています。
ヘアブラシクリーナー未体験の女性の方は是非。
私みたいに爪の間を刺さないように気を付けてください。
じみちゃんちに行った帰り道、少し酔っていて買ってしまったシュクメルリカップ麺。
前から猛烈に気になっていた。
酔っていての買い物としては、かなりグッジョブなのでは。
少なくとも生卵買って割って持ち帰るよりは遥かに良い。
昨日はたくさん歩いたので、カロリー相殺でしょうと実食。
蓋を開けた瞬間から、にんにくの香りがすごい。
松屋のシュクメルリ鍋は今季まだ食べていないので早く食べねば。
お湯を入れて、私は麺かためが好きなので2分半待つ。
できた。
すごい香り。
麺は30秒早めでも柔らかかった。
そうめんを伸したかんじ?
カップヌードルよりやわく感じたのは気のせいかな。
そしてめちゃくちゃ濃厚なスープ。
美味しい。
するする食べられる。
表に、スープにごはんを足してリゾット風にも!的な事が書いてあった。
それを聞いてしまうと、このまま飲み干すのも勿体ない気がする。
とはいえ今すぐごはん食べられる余裕もないし。
ということで、夜ごはんに持ち越す事に。
シュクメルリ残りスープのリゾット風。
さすがにカップ麺の汁とごはんだけだと栄養的にどうなのと思って、白菜とおからをチンして混ぜてみた。
パンチの効いたスープがかなりマイルドに。
久しぶりにジャンクフード食べて思ったけど、味が濃いというか、舌に感じる塩気がすごい。
そして中毒性がある。
味が強いと喉が渇くし、どんどんばんばん口に運んでしまうなと感じた。
満腹中枢が反応するのは15分以降らしいので、口の中の快楽に任せて早食いしていると自ずと摂取量オーバーしてしまう。
一概に言えないけれど、個人的に思う市販品や外食の怖いところ。
自炊なら薄味に作って後から足したりできるのだけどね。
薄味のカップ麺なんて絶対嫌だけど。
ジャンクフードは食事というより娯楽。
たまに食べるのは良いなと思った。
私のイチオシカップ麺は、一平ちゃんの塩だれ味。
ガーリックマヨがついてて美味しい。
ジャンクも自炊も、結局にんにくばかり食べている。
昨日焼いたパン。
4回目ということで結構慣れてきた。
慣れてきたからといって、塩を別で計量する手間を省いた結果、勢い余って1g多く投入してしまうという痛恨のミスを犯した。
あと横着して100均で買ったシリコンマットの上でパンを切ったら、シリコンマットも切ってしまった。
そういうところだぞ。
慣れ=注意力の欠如とは限らない。
即ち、これは怠慢である。
怠慢だぞ。
自覚するのだぞ。
パン自体は美味しく焼けました。
今回はこちらのレシピ。
ふんわりだけど下の方の耳はしっかり目に焼けていて、普段使いにとても良さそうな仕上がり。
レシピって本当に魔法だわ。
前回までは8枚切りにしていたけれど、今回は6枚切りにしてみた。
折角だからパン切り包丁買おうかな。
この間100均で見つけたので、買ってこようっと。
この間買っておいたかぼちゃをポタージュにして冷凍した。
かぼちゃの皮とたねとわたを取って小さい角切りにして、レンジでチン。
指で簡単に潰せるくらいになったら、スプーンでなめらかになるまで潰す。
牛乳を少しずつ加えて練って、好みの味まで引き伸ばす。
弱火で熱して、コンソメで味を整えて完成。
濃厚美味し。
緑黄色野菜ですね。
βカロテンまるごとって感じ。
絶対身体に良いやつだわ。
スープを冷凍したのは初めてなので、きちんとできたかドキドキである。
調理前の食材は積極的に冷凍するのだが、調理後に関しては大体冷蔵庫で食べ切る感じなので、もっと冷凍保存活用したい。
一度作ったら食べ切るまでずっとそのメニュー、みたいな一人暮らしの性を克服したい。
がんばるぞ。


最近、ライブ出演のお誘いを戴いた。
とてもありがたいことである。
しかしながら私としては、まだ無善寺以外でライブをやる気持ちになれない。(※りなちゃんとのライブは別だし寧ろご褒美)
一度やり始めたら、それを皮切りに他のライブ出演を受けてしまいそうなのも目に見えている。
先日世間話をしていて、
「帰る方面が同じですね」
となった方がいたのだが、私は元々抱いていたSEIYUでバナナを買って帰りたいという気持ちを蔑ろにして、一緒に帰路に着いた。
別に相手が一緒に帰ろうと言った訳ではないし、私も一緒に帰りたいと切に願った訳でも無い。
ただなんとなく、買い物があるのでそれではと口に出すのは憚られた。
言葉には出していないけれどなんとなくこの後進むであろう流れを、私という一個人の意思や言動で変えるという行為が、とても苦手だ。
私が何かを断ったり都合を口にするのは、余程の時だけだ。
私にとって何かを切り出すということは、とても勇気が要る。
だからいつも、自分の意思を喉の奥に押し込んできた。
些細なことでも、大事なことでも、関係なく。
「帰りにバナナを買って帰るので」
という一言でさえ、口から放してあげられない。
私が精神的な病になったのは、そういうことの積み重ねに、私の中の細胞が意を唱えたからだと思う。

この間菩薩と、内臓や細胞にはそれぞれ意思があるという話をした。
菩薩曰く、サイエンスでそういう事がわかっているとのこと。
私は化学的な難しいことはわからないが、本能的になんとなくそうだと思っていたので、とても興味深かった。
人間は1枚の皮膚を囲いとして、たくさんの細胞や元素が統率されて成り立っている。
いわば国のようなものなのだと思う。
それぞれの意思が相反したり無理矢理捩じ伏せられたりすれば、病や怪我を引き起こす。
分かりやすく言えば、お酒を呑み過ぎて怪我をしたり、肝硬変になるのもそのひとつと思う。
それらを避けて健やかに過ごす為には、自分自身の心身もといそれらの意思ときちんと向き合わなければならない。
私はそれをすごく怠ってきたから、遅れ馳せ乍ら、自分とイチから向き合ってみている最中。
周囲を察知する能力は度を超えて持っていると思うので、多分角度とか方向とかを変えてみたら、自分にも過敏になれると思ってはいる。
なので最近、"他人に親切に、自分は二の次"みたいな生まれながらの感覚があるのを利用して、自分を自分ではなく複数の集合体であると考えてみた。
自分が自分だと思っているのはただの統率者及び総合司会者であり、個々の感覚や意思を平等に尊重する存在でなければならないと考えてみる。
ハッキリとそう考えたら、なんだか自分の意見を口に出せそうな気がしてきた。
誰かが望んだ私でなくても良いように、私自身が望んだ理想の私でなくても良いのにねと改めて思った。
言葉にできても、わかったと思っても、しばらく経つとまた同じところを禅問答の様にぐるぐるとしてしまう。
それでも何度でも何回でも、きちんと向き合っていかなくてはね。
私が生まれて死ぬまで一緒なのは、私ひとりだけだもの。
身体も心も死ぬまで替えが利かないのだから、きちんと愛着をもって日々を過ごしていこうと思う。
今日もおいしいごはんが食べられて幸せでした。

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