ローストビーフを食べた。展示を見に行った。
昨日は年末父にもらった真空パックのローストビーフをようやく食べた。
美味しい。
市販品もあなどれぬな。
ぐぁんさんのスパイシーに続いて、ローストビーフ2デイズ。
ちなみに私は、ローストビーフを作ったことがない。
ローストポークは己の体重を超える量焼いてきているというのに。
豚肉の甘みが好きで、脂のさした肩ロースの柔らかさが顎に優しいのと、牛肉より安価なので作り始めたのだったと思う。
ポークを焼き始めて、もう7年くらい。
職人かよ。
それでもいまだに毎回焼き加減で苦悩する。
最低限の火入れがジューシーさと柔らかさの秘訣なのだが、豚肉なのでしっかりと火を入れねばならない。
フードなどでお客様に出す際は、尚の事。
いつも規定の時間プラス、鉄串で刺して透明な汁が出るかと、抜いた串を唇の下に当てて生ぬるくないかチェックしている。
焼き過ぎると、やはり少しパサついてしまう。
食べる方にはわからない程度だが、何十キロも焼いてきている私には、最初に包丁を入れた時点ですぐに分かる。
そんな時は少ししょんぼりします。
最高の状態のローストポークを食べて欲しい。
美味しいね!と言われて、そうでしょう!と共有したいのだ。
でも焼き足りないのは衛生的に絶対NGなので、危険な賭けはしない。
はたして今年は、何キロ焼くのでしょうか。
【瀬川祐美子展「窓」ライブペイント LIVE配信】
— Segawa Yumiko (@yumigor) January 8, 2021
2021年1月9日(土)11時〜15時(予定)
HYPERMIX CHANNEL (YouTube)↓https://t.co/GECBRMDCAT https://t.co/3MNdfFDsAC
今日は個展を見に、門前仲町のHYPERMIXへ行ってきた。
偶然告知を見つけて、11日までやっていると書かれていたので、行ってみることに。
ゆみこちゃんとは小中同じ学校、美術予備校で再会した。
私が大学入ってからは1、2度会ったっきり。
大学に入ってから、パフォーマンスや音楽に傾いていった私。
それまで関わってきた、特に、予備校時代の絵画や彫刻専門の先生達に対し、裏切り者であるような気持ちがあった。
だから、大学入学後、予備校に顔を出したのは1回だけだった。
なんとなく避けてきてた。
ような気がする。
みんなに会ったら、油画を描かなくなった今の私が、元々の道を逸れて間違っているような気持ちになってしまうから。
自分の心に正直に選んできた道なのだから、根っこが変わったつもりはないし、負い目を感じることもないのは分かっている。
それでもやっぱり、アトリエでずっと作品に向かっている人の強さを知っているから、
「私はもう違う畑に越してきてしまったのだな」
と思ってもいる。
この辺りの気持ちや考えは自分でもとても複雑で、いくら考えてもあちらこちらに散らばって、答えは出ない。
ゆみこちゃんの展示を観に行く資格が、私にあるのだろうか。
予備校時代の先生に出くわしたら、どうしよう。
大学入ったけど音楽やっていると言った時、私の油画の先生は優しい顔でそうか、と言って、
「大山、やるなら、1番を目指すんや。」
と言ってくれた。
私は先生の言う1番がなんなのかわからないまま、今日まで生きてきた。
私に絵を描き続けて欲しかったであろう先生が、背を押してくれた一言でさえ掬いきれない自分に、劣等感があった。
歯磨きしながらアレコレ考えた結果、普通に観に行けばいいじゃんと思った。
資格があるのかとか、展示見に行くのに関係ないし。
そもそも生きてる資格なくても生きてるじゃん、と思った。
迷宮に迷い込むように悩んだと思ったら、突如宇宙空間に解き放たれるが如く境地に達する。
我ながら極端な脳味噌だ。
門前仲町の駅から歩いて4分。
原宿とかにあってもおかしくない感じのお洒落なビルだった。
なぜか1階スペースでけっこうな音量でDJをまわしていた。
確認してはいないが、別の団体のよう。
アート系の場所でDJをみると、大学を思い出してすこしヒリヒリする。
偏見とかじゃないけれど、どちらかというと苦手な人種。
六本木のクラブは好きなのだけど。
あれはテキーラ!ナンパ!ダンスダンス!みたいに、あっち方面に突き抜けてるから好きなのだろうな。
11〜15時でライブペインティングをしていて、丁度終わった所のようだった。
赤いつなぎを着たゆみこちゃんがいたが、来客がいらしたので先に展示を見に、8階のギャラリーへ。
エレベーターを降りて右手に展示会場があり、靴を脱いで入るようになっていた。
ご時世なので、手の消毒と連絡先の記入を済ませる。
大きな窓から自然光が入ってきて開放感がある部屋だった。
今回"窓"というテーマでの展示ということで、会場も意識したものなのかなという印象を受けた。
アクリルパネルを重ねてあり、それぞれに描かれたものが重なって見える。
透明なビニールに描かれた作品。
油絵もあった。
ドローイング。
最後にポートフォリオを拝見した。
ポートフォリオとは、作家さんの経歴や作品をまとめたもの。
留学中含め、過去の展示もまとめられていた。
この中の一文に、
"大学院に入学し、日々制作をしていく私の心の内には、言いようの無い不安がずっと漂っていた。
作品をひとつ、またひとつと増やしていっても、「私のやってることは無駄かもしれない。」と、穏やかな不安がただただ彷徨っている気がした。"
とあった。
その言葉を読んで、今一度展示をぐるりと見返した。
涙が出てきた。
不安だったのは、私だけじゃなかったのかなあ。
10年以上全く違う時間を過ごしてきて、ただ同郷で、予備校が一緒で、特別近しいわけでもないけれど、なんだかすごく涙が出た。
こうなることがわかっていたから、避けていたのかもしれない。
彼女の描き続けてきた時間に、自らのなにかを重ねて感慨に浸るのは、とても軽薄な気がしてしまうから。
私がそれをするのは、とても失礼な気持ちがしてしまうから。
なぜだろう。
私は、昔から、いつだってとてつもなく自信がない。
ひとりの人間として当たり前にある権利や資格が自分には無いのだよという気持ちを、小さいときから当たり前に抱えている。
1階のライブペインティングのフロアへ行ってみたが、ゆみこちゃんは見当たらなかったのでそのまま帰ることにした。
挨拶出来なかったが、記帳はしたし、また次展示を見に行けばいい。
頭が熱を帯びていたので、帰り方面へ駅伝いに少し歩く。
過去の事象や人脈を美化して、感慨に浸りひけらかす行為が、すごく嫌いだ。
私はとても自信がない人間だけれど、そういった精神的露出で自己陶酔するような人間には、絶対になりたくない。
今の世界がつまらない人たちは、すぐにうつくしかった頃の話をする。
「俺も昔はロックスターだった」
とかいうアレが、だいきらいだ。
つまらないのは世界じゃなくて、そんな事ばかり口にする自分自身であるという事に、どうして気が付かないのか。
そういう確固たる気持ちがある以上、この感慨は、涙は、きっとその類ではないんだろう。
だから、安心していいのだ。
彼女の作品に心動かされた。
ただそれだけなのだから。
私はすこし、理屈っぽく考え過ぎなのかもしれない。
[▲水辺が近いところは心が広々として安らぐ。横浜育ちだからだろうか。遠くの方にスカイツリーも見えた。]
[▲結局門前仲町から東京駅まで歩いた。東京駅は相変わらず綺麗。]
軽々しくアートアート宣う集団が、嫌いだ。
大嫌いだ。
そもそも"アート"というのは呼称ではなく概念的なもので、戦争反対を叫ぶ際の「PEACE」のように物々しく且つ合言葉のように叫ぶものでも無いと思う。
作品はわざわざ、
「これがアートだ!!」
と宣言せずとも、自ずと分類されていくものである。
わざわざ何度も口に出されると、ハッキリ言って、胡散臭い。
作品や展示に対して、
「これはアートですねぇ。」
という言葉は、侮辱にも近いと私は思う。
もしそれを言った人間が作り手ならば、私はその人と完璧に相容れない。
そういう人間が間違っているとは言っていない。
ただどう転んでも、私の肌にも語感にも合わない。
なんでもかんでもわかったような口を利く専門家や堅苦しい輩も、大嫌いだ。
芸術という言葉を用いるのも憚られるくらい、それらは日常と密接して存在していて、誰しもの生活と共にある。
音楽も、絵画も、デザインも全て。
実際美術館に訪れるのは、休日のカップルだったり、有名な絵だから見に行こうかという家族連れだったりする。
芸術といわれる類いの全て、年齢や国籍問わず、どんな人間にも開かれたものである。
それなのに
「素人には分からないだろうが」
等と言ってのける専門家もどきが、少なからず居る。
私はそれらに相対した時、卒倒してしまいそうになる。
前者はアートと言えばなんとでもなると思っているのか、軽率極まりなく、野蛮にさえ感じる。
後者は精通している事を鼻にかけて、一般の人々を自ずと卑下しているスタンスが、本当に不愉快。
ここまで極端な例は稀だが、この両極がそれぞれに相容れない私は、結局、ハッキリとした答えを出さないまま、ずっとゆらゆらと漂っている。
何かに刃を向ける事になるから考えないようにしていた事柄を、たくさん思考した。
それら含め、今日ゆみこちゃんの告知を偶然見つけたのも、実際に足を運んだのも、ある意味、自分の中に余裕が出来てきた証拠なのかもしれない。
私もゴチャゴチャ言わずにやろう。
それでいい。
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