苦行と涅槃。
小学生中学年頃から、徐々に学校に行かなくなった。
いじめられていたわけでも、いやな先生がいたわけでもなかった。
決定的だったのは、それまで当たり前でデフォルトだった笑顔がつくれなくなったこと。
口角があがらないのだ。
うっかり瞬間接着剤のついた指と指を閉じてしまったときみたいに、おどろくほど物理的に、口のすみとすみが、地面に向かって頑なに、うごかない。
原因不明の鼻炎、鼻膜の腫れにより、鼻をすすることができず、ポケットティッシュでは事足りない仕様に対し、マスクをするという対処を選んだ。
症状に対しての根本的解決ではなく、症状を隠蔽することで、"他者から観測されない=不具合のない私"を存在させる道を選んだ。
筋肉が壊死したような口まわりを携えながら、それ以外の眉、目元、頬肉で笑顔をつくり、同級生とコミュニケーションをとった。
私は嘘という演出が上手だったようで、幸い、だれかに指摘されることは一度もなかった。
唄っているときの眼力がつよいのは、この頃の鍛錬の賜物なのかもしれない。
ダムダム団で、武器とも言えるその目元を隠して唄うというのも、なんとも不思議な話である。
サングラスにフードを被る仁王スタイルは、ドラムでリーダーの鈴木さんの指示で、じゅんじゅんのきゃぴきゃぴ感を打ち消すためなのだそう。
じゅんじゅんが勝ってしまうというようなことも言っていて、なるほど、と思った。
地獄先生ぬ〜べ〜の、鬼の手を封印しておく手袋のようなものなのかもしれない。
結局、口角の次は、身体全体が地面に吸引され、布団から起き上がることが困難になった。
「なにがいやなのか言ってくれないとわからないじゃない。」
と母親から泣き叫ばれても、いやなことなんて思いつかなかったし、なにが起きているのか、私にもちんぷんかんぷんで、八方塞がりとはこのことか、と思った。
私はとても幼かったから、適当で上出来な、母が納得できるような優しさ由来の嘘を用意する余裕も発想もなく、ただただ、ヒリヒリした言葉を頭上に受けながら、
「わからないことくらいわかってほしいなあ。」
と思った。
中学を卒業するまでろくに通学しなかった。
学校なんて私の人生に比べれば屁でもないだろうと好きなことをして悠々自適な生活。
ではなかった。
むしろその逆だった。
毎朝、毎晩、学校に通えない自分を責め続けた。
和室であった自室の障子から差し込む朝陽は、絶望だった。
今日もまた、起き上がれない。
なんとか家を出たとしても、通学路はぐるぐるゆがんで、真夏でも冷や汗が止まらず、逆流してきた胃液で口の中が酸っぱい。
普通が、どうしてできない。
私はどうなってもいいから、私がちゃんとできないことで、かなしんだりくるしんだりする人がいない世界がよかった。
前述の願いを叶えるとすれば、この世界から自分をなくすという選択肢は採用できない。
八方塞がりとは、このことか。
それでもたまに中学校に行った。
先生も学校もとても寛容で、放課後、美術部に顔を出したり、スクールカウンセラーの先生と話をしたりした。
私がイタリアに行くきっかけとなったポール・デルヴォーの画集との出会いは、この時期の美術準備室でだった。
「じゅんちゃんのギターを聴かせてほしいな。」
と、先生が機会をくれた。
卒業式に出るのが困難であった私に、自分の得意なものでせめてもの区切りをと、卒業式の準備で忙しい中、放課後、教室。
赤いZO-3で、GO!GO!7188の『考え事』を弾き語りした。
先生ふたりと、先生がその場で声をかけてくれた数名のクラスメイトや後輩が聴いてくれた。
人前でギターを弾いてうたうのは初めてだった。
心臓がこわれそうな緊張の中一曲唄い終えると、みんなが拍手をくれた。
それが例え不登校児への憐憫であったとしても、すごく、すごく、嬉しかった。
私の、私だけの、卒業式。
中学最後の卒業旅行は、日帰りで行くディズニーランドだった。
せっかくだから無理がなければじゅんちゃんもおいでと先生に言われ、寸前まで悩んだが、結局行くことにした。
いつもと違う私服のクラスメイトに、そもそも制服を見慣れていない私でさえ、特別なわくわく感を覚える。
私は当時パンク服やロリータ服、いわゆる原宿系ファッションにはまっていて、フリルがキツすぎない可愛い目のワンピースといちごのポシェットを身に付けて出向いた。
向こうに着いてからは、班のメンバーにおくれないようくっついてまわるのに必死だった以外、具体的なエピソードは記憶に薄い。
帰りのバスの中では、大多数が遊び疲れて眠ってしまっていた。
私は、来るか来ないかわからない人物だったからか、二列ずつの座席の真ん中にある補助席に座っていた。
淡々とランド内を闊歩した程度であった為、その他大勢のように居眠るほどの疲労感もなく、夕刻のバスの中でひとり惚けていた。
世界の多数と自分との違いをゆるやかに、それでいてたしかに照らされたような、不思議な心具合で、気付けば、いちごのポシェットの肩掛け紐を自身の首にかけ、両手でゆるく絞めていた。
絶望はなかった。
虚無、とおもった。
虚無という言葉がぴったりだった。
いまこの空間と瞬間にタイトルをつけるならば、『虚無』だとおもった。
完全に自分の世界に入りこんでいると、後方から声がした。
どこかで聞いたメロディ。
火曜サスペンス劇場のテーマだった。
後ろを見ると、仲のよい男子の集まっている列だった。
なんだよおまえ突然ー!とまわりに聞かれると、声の主は仏頂面で、いやべつに、と答えた。
私は悟られないよう視線を前に戻すとともに、とてつもない衝撃を受けていた。
それはあきらかに、私の奇行に向けてのBGMだった。
そこで、
「いや、あいつが首絞めてるから!」
と皆に言うことだってできたはずだ。
そうすれば、あんまり学校にも来ない私というへんな人間を茶化して、仲間内でわいわい出来ただろう。
けれどもそこで、いやべつに、と、静かに言ってのけた。
前者を選べば、退屈を持て余したみんなは盛り上がり、一方の私は恥ずかしい思いをしたかもしれない。
反する後者は、私の"虚無"を、だれかに嗤われる事無く"滑稽"に昇華させる行為だった。
鳥肌が立った。
だれも傷つけることなく、そこにあった虚無だけが霧散し、私が世界とのあいだに感じていたオゾン層のようなものは消えていた。
先程までと、ちがう世界にいた。
私はたしかに、バスの乗客のひとりになった。
それが武田くんだった。
武田くんは、私にとって憧れであり、目標であり、教科書に載るくらいの偉人なのである。
その武田くんが、太田プロの養成所に入ってお笑い芸人を志していると知って、飛び上がるほどうれしくて、それ以来、定期的にライブを観に伺っている。
昨年コンビを解消し、先日、電気武田の芸名でピンで初めての事務所ライブがあるということで、遊びに行ってきた。
武田くんは2番手で、それはもう、むちゃくちゃにおもしろかった。
あの時とおんなじで、だれも傷つけない笑いが、そこにはあった。
去年の夏に初めてサシで呑みに行った。
羨望と、緊張と、イタリアから帰国した余波でメンタルがブレにブレていたため、なにを話したのか、よくは覚えていない。
高円寺は大将のビールを、すごくたくさん呑んだ。
以前、芸人さん同士ルームシェアしている武田くんの自宅で開催されたトークショーで、私が呑み過ぎてトイレでちょっと吐いたことがその時発覚した。
記憶になさすぎる。
「おれは汚れるの嫌だから近付かなかったけど。」
と、同居人さんが介抱してくださった事実も、その時初めて知った。
ひどすぎる。
そして、前述の卒業旅行帰りの火サス事件の話をすると、
「おれそんなことしたっけ?ちがう人じゃない?」
と返された。
いやいやいやいや。
そんなはずは。
しかしながら、真実を確認する手立ては残されていない。
混乱と衝撃に卒倒しそうな心持ちでビールを呷ると、
「大山、ギター弾いてたよね。赤いの。」
と武田くんが言った。
私だけの卒業式のあの日、生徒会長だった武田くんは卒業式の準備などで教室にいて、そういえば一瞬顔を合わせたような。
同じ時間と空間を共有していたのは、夢でも嘘でもなかったのだ。
不登校だった私は、高校に入って学年トップの成績まで上り詰め、憧れだった武田くんとおんなじ生徒会長になったのでしたという後日談を話すと、武田くんはびっくりしていた。
その後、呑みいきませんかと連絡を試みるも、お忙しいらしく、現在まで叶わないままである。
家に来て勝手に呑み過ぎてちょっと吐く人間と呑みたい人なんていないよな去年よく出向いてくれたな、と、武田くんの寛容さに頭が上がらない。
私の中の、憧れであり、目標であり、偉人なのである。
昔から疑問に思っている。
どうして"好き"は、相手が異性になると恋だ愛だと半強制的に割り振られてしまうのか。
"友達以上恋人未満"の示すヒエラルキーが、どうやっても、心にしっくりとこないままだ。
中学校の制服でスカートを履かされたときから、私のなかでの折り合いは行きどころを失くしてしまった。
いまでも、恋とは、愛とはなにものなのか、ずっとずっと、考えている。
母が我が子を抱き締めキスをするように、私は、尊さに、いとおしさに、ただただ準じていたいだけだ。
それしかできないんだ。
それしかのこされていないんだ。
だからきょうも、唯一無二でたいせつな、すべてのあなたが健やかで在れますように。
祈るだけ。
祈るだけだ。
忘れるとは、人間に許された唯一の逃げ道だ。
祈るとは、人間に赦された唯一の、救いだ。
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