承認欲求のその先。

"わかってほしい"という欲望はどこからくるのか考えていた。
ゆらゆら帝国の3×3×3というアルバムに、『わかってほしい』という曲が入っている。
ふとした時に、この曲の、

"○か×の夢
○か×の今日
○か×の明日
○でも×でもないもの
わかってほしい
わかってほしい
わかってほしい"

というフレーズが頭を過ぎる。
思考している内容はもっと具体的であるのだが、なにかが引っかかるという意味では、その実、深く関係しているのかもしれない。
作品というのは、人の深層心理に働きかけ、それらを喚起させる、ものすごい発明だ。
思考は詩に起こすことで、途端に肌の色や輪郭、表情まで鮮明に相成る。
人間に於ける、内臓器及び体液をまとめあげる、皮膚のような役割があるような、そんな感覚。
タイトルを唱えれば、だれしもがアーティストと成り得る。
本当は、どんなひとでも、その素質を秘めている。
誰しもが秘めて仕舞っているそれを、作品を用いて突き動かし、爆誕させ、この宇宙をより躍動させること。
それが、私の至高の喜びであり、自分という神様が与えてくれた使命とつよくおもう。
たくさんの人と、時間空間距離を超越した交配を経、たくさん感じることをし、たくさん考えることをしたい。


SNSの普及と共に、承認欲求という言葉を頻繁に耳にするようになった。
Wikipediaで検索すると、
『承認欲求とは、「他者から認められたい、自分を価値ある存在として認めたい」という願望であり、「尊敬・自尊の欲求」とも呼ばれる。』
とある。
マズローの欲求5段階説がとても好きな私なのだが、最近、この承認欲求いわゆる"わかってほしい"が、この5段階の上層に在ることに気付いた。
とても好きで常に思考の片隅にあるはずなのに、何故今更気付いたのかは、謎である。
もともと、食べる寝るなどの動物的欲求や、生命の安全といった土台の欲求がしっかりとしていなければ、その次の社会的欲求や自己実現の欲求を成す事は難しい、という部分に惹かれていた。
足元ばかりに気を取られ、その上には目がいかなかったのだと思う。
ということは、私もついにある程度足元が固まり、余裕が生まれ、思慮の視野が広がった、ということか。
使い古してぼろぼろになった教材に、突然新しいページが増えたような、なんとも不思議で、驚きで、喜ばしい気持ち。

結論から言えば、"わかってほしい"の根源には、自己への探求が含まれているということ。
自分自身を第三者に投影し、その反応を得ることで、自らを知ろうとしている節がある。
それが気軽に、指先ひとつで出来てしまうのが、SNS。
SNSそれ自体は、悪いものではない。
目の前にいない相手の、否、目の前にいる相手であっても、その人の考えや感じたことを文字越しに知ることが出来得る。
その逆もまた然り。
しかし、その手軽さ故に、"わかってほしい"と"わかる"が、あまりにも簡単に手に入り過ぎる気がしている。
正しくは、手に入ったような気になってしまうような気がする。
他者との感覚の共有とは、社会を形成し生きていく人間である限り、一種の必須事項である。
それと同時に、快楽でもある。
これが手軽に手に入った"つもり"になれるとなれば、もっと欲しい、もっと欲しい、とのめり込む。
ある種の中毒に近いのだろう。
SNSに没頭して生きることがよくないとは思わないし、それが喜びや救いである人も、多くいると思う。
私が注視しているのは、物事や人の気持ちをわかった"つもり"になって、自分の脳味噌を使って思考しなくなること。

女子高生の頃、クラスメイト同士が昨夜のテレビドラマの話で盛り上がったり、「授業だるいわー」「わかるー」と話すのを見ていた。
中学時代に実家のテレビが壊れてから地上波を観る機会が無く、その上不登校であったため、世間の話題はほぼわからなかった。
内容のない対話で徒党を組むのが、とても苦手だった。
なぜ、どうして、どのように、と、もっとあなたの感覚を知りたいし、探りたい私にとって、ねこじゃらしを用いて頬をそっと撫ぜるようなコミュニケーションは、歯痒く、なんのためにあるのかわからなかった。
そんな私にとって、誰かといっしょにおひるごはんを共にするという学校の文化は、地獄だった。

中学時代、人前でごはんが食べられなかった。
箸で食べ物をつまみ、口先まで運び、適切なおおきさに開いた口内に、箸先の食べ物を放り込むという一連の所作が、上手にできない。
そのひとつひとつのタイミングをあやまるたびに、勉強机に広げられたナフキンのうえに、ぽろぽろとごはんやおかずがこぼれおちる。
幼い頃から、
「ごはんつぶにはかみさまがいるから、ぞんざいにしてはいけないし、ひとつぶでものこしてはいけない」
と教わり、それに合点がいっていた私は、食べ物を粗末にするような行動をしてしまっている自分が、どうにも許せなくてやるせなかった。
当たり前の事がこなせないのがなぜなのかもわからず、とてもくやしく、かなしく、腹立たしかった。

中学時代の苦い経験から、高校では同じ轍を踏むまいと、おひるごはん一緒に食べようよというお誘いを悉く断った。
うまく断る口実を作るため、部活に4つ入ったり、生徒会に入ったりして無理矢理おひるごはんを共に過ごせない仕組みを作るなど、試行錯誤をした。
それでもやはりどうにも予定がないときもあり、そんな時は、通学バッグに頭を突っ込み、こっそり持ち歩いていたMDプレイヤーで、Sucideの『Ghost Rider』を聴いた。
側から見れば、きちがいである。
そんな人間に、おひるごはん一緒に食べようよなどと、だれが肩を叩くことが出来得るだろうか。
私の場合、頭を使い過ぎる節がある。
なんでもかんでも、どうしてだろう、と引っ掛れば、ぐるぐると頭の端で思考を続ける。
好き、も、どこをどう好きなのか、そのディティールや色味まで考えずにいられない性格だ。
好しがらざるものならば、尚のこと。
負や嫌悪とは、幸福とちがって、とってもソリッドで、強い。
危機感に警鐘を鳴らす、扁桃体の仕業もあるのだとおもう。

わかろうとすることはとても大切とおもう。
だがしかし、わかると口に出した途端に、ピタリとその形にかたまり、そこから広がることも崩れることもなくなる。
量子論では、本来物体は霧のような状態で、目にすることで、その形状にまとまるのだという。
それととても近い気がする。
わかるなんていうなよ。
私は死ぬまで一生、わかろうとしていきたい。
あなたのことも、わかろうとしていきたい。
わかってしまうまで、ずっとずっと。

ミスビアガールというコンテストにエントリーしております。
優勝すると、ビール1年分いただけるそうです。
私は1日に3リットルはビールを呑むのだが、どのくらいいただけるのだろうなどと野暮なことを考えつつ、日々配信をたのしみがんばってみている。
昨日は配信しようと思っていたけれど、結局しなかった。
予定は未定。
そういう現実にぶちあたる、ぶちあてるのも、生きてこその醍醐味である。
すべておいしく調理してしまえ。
この世のすべて、自ら責任を負っていけば、途端に霧は晴れ、本来の世界と対等に生きるを謳歌し得る。
今日はお仕事のあと、すこし時間がとれそうなので配信予定。
そう、予定は未定。
すべては自ずと然るべきご縁のもとに。
今朝は雲が薄い桃色で、水色の空とのコントラストが、夕暮れみたいで不思議で、うつくしかった。
あなたの空も、うつくしくあればいい。
今日も朗らかに、一歩ずつ。

じゅんじゅんホームページ

じゅんじゅんオフィシャルホームページ

0コメント

  • 1000 / 1000