解脱の糸口。

病の根源である不安や恐れをちいさくするためには、自己肯定感が大きなポイントになる。

私は昔から、自己肯定というものがとてつもなく苦手だった。
私自身の価値の無さに、呼吸をすることにさえ申し訳無さがあった。
一個人の内容物に関係無く時間をお金に変えられる労働というシステムに夢を見て、中学生の頃から新聞の求人面をめくっては、
「無駄に二酸化炭素を吐き散らかす私が、呼吸をしても許されるだけの価値を作らなければ。」
と焦燥に責付かれてばかりいた。
私がどう足掻いても家族の不仲は修復の兆しを見せず、精神的に不安定なおばちゃんからかかってきた電話に何時間も頷き続けても、彼女の環境や心情はよくならなかった。
自分の無力さと、その程度で絶望を覚える器の小ささに辟易とした。
"私なんかが恐れ多い"という感覚が心に常駐し、呼吸すること、生きることをも取り上げて、自分で自分を叱責し続けた。
頭ではわかっていても、どうやっても、心の底から自分を信じることができない。
自己肯定感なんていう言葉に、後ろめたささえ感じていた。
いつまで続くのかわからない、地獄のような毎日だった。

ぐるぐるとしたそこから抜け出した今、なぜそのような状況や心境のまま何十年も対処出来ずにいたのか、我が身を振り返りながら分析している。
最近気付いたのは、自己肯定と自己愛はまったくの別物だということ。
隣り合ってはいるし、それぞれ共鳴し合うものの、根本的には別なものとして扱うべき感覚であると気付いたとき、とてもしっくりときた。
私も以前まで、"自己肯定=自己を愛せ"という意味だと勘違いしていた。
でも、そうではないのだと思う。
人権の定義にある"人としての権利"のように、ひとつの生命体として存在している事実を認めるということなのではないか。

精神的に不安定な状態かどうか推し量るのに、ネガティブな思考や怒り、過度な批判はとても役に立つ。
ネガティブシンキングが心身に悪影響を及ぼす事は、あらゆる研究により明らかになっている。
私は、だからネガティブが駄目だ、と提唱したいわけでは、ない。
そういった精神的不安定からくる症状を感知して、いまの自分には余裕がないのだ、という目安にしていくべきだ、と強く思う。
勿論、マイナス的な口振りが好きな人、批判が好きな人もいて、それはまた別の話。
解決ではなく、文句を垂れ続けていたい人は多く居るし、それはそれでいいと思う。
自分と向き合うという作業は、口先だけで苦言を呈するのとは比べ物にならないほど、しんどい。
今までだれかやなにかのせいにして片付けていた事柄を、すべて自分で受け止めていかなくてはならないので、とても面倒であるし、億劫。
でも、延々と続く満たされないループから抜け出し、心の平穏を手にれたいのであれば、ここを通らずには、先に進めない。
趣向と心の不穏をきちんと認識すること。
自問の癖をつけること。
自分を疑うのではなく、事象として、いかなる状況であるのかを出来得る限り客観的且つ平等に解析する。

多くの人が、自分の行動の過ちや思想への指摘を、自らへの否定であると勘違いしてしまう。
誰かになにかを言われた際、カッとなったりひどくショックを受けた時には、言い訳や相手への反論ではなく、己の中のどのこだわりや固定概念がトリガーとなったのかを考えるべきだ。
自分の非を認めるようで、最初はすごく嫌かもしれないけれど、実はこちらの方が圧倒的に楽なのだ。
自分の心をささくれさせている要らないこだわりをそっと手当てする。
そうすれば、日常の些細な苛立ちや不安がなくなっていく。
私も日々、鍛錬の最中。
昨日は渋谷ガビガビでソロ唄い初めでした。
主催のみやこちゃんが、スタート早々にスマホを落として壊してしまい、ただならぬ空気に。
そこはスマートフォンを何十回も失くして壊してきた私、まだ開いている携帯ショップを検索し、代替機を借りられるかもしれないとお伝えする。
イベントは優しい演者様方のチームワークで遂行し、みやこちゃんも無事代替機を持って帰還。
最終的にはみんな笑顔で終える事ができました。
失敗も、こうしてだれかの役に立てられれば、失敗ではなくなるよね。

昼間一食しか食べていなかったので、帰りにファミリーマートでおすしを購入。
50引きでした。
コンビニでの値引き導入、まじでグッジョブ。
おしす、美味しいなあ。
はやいところ九州醤油を買ってこなければ。
明後日は初の西横浜エルプエンテ。
膨張番長のおふたりと超久々の再会、楽しみすぎる。
明日は素直に終電帰宅かなあ。
予定は未定、ゆるゆるやっていこう。
皆様も、心身第一でお過ごし下さいね。

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