月光のソナタ。
昨晩、ベートーベンの月光を聴いた。
有名な第1楽章は何度も耳にしたことがあったが、最後まで聴いたのは初めてであった。
ベッドに横になり、常夜灯を眺めながら、イヤホンから流れてくる音に愕然とした。
なんだこれは。
とんでもないじゃないか。
冒頭の悲哀と打って変わって朗らかな第2楽章、その後捲し立てるように迫り来る第3楽章。
特に、このラストへ向かって畳み掛けるような第3楽章が、ものすごい。
第2章の頭を聴いては第1章に巻き戻していたが、途中面倒になって聴き流していたら、第3章が流れてきて耳を疑った。
そのあと全編通して聴いて、改めて驚いた。
退屈な予感がしていた第2章が、こんなにも染み込んでくる。
始まりから終わりまでの完成された流れ。
なんなんだ、これは。
こういう鮮烈の覚え方は、初めてかもしれない。
そもそも、クラシックのソナタを通して最後まで聴いたのが初めてだ。
バッハの無伴奏チェロ組曲も冒頭のプレリュード以降は飛ばしてしまうし、それ以外に聴くクラシックといえば、山田かまちの影響で聴いていたカラヤン指揮の音源。
特にわかりやすいカノンを繰り返し聴く程度。
かなり昔にクラシックの公演に行く機会があったが、半分以上が眠気と、同じ体勢で座り続ける辛さとの戦いだった。
クラシック音楽に興味が無いわけではないが、やはり取っ付きづらく、退屈な印象が強い。
月光を聴いて感じたのは、鮮やかで生々しいピアノの音。
いままさに釣り上げて血を抜いて捌いた魚を口にした時の、弾力のある肉のような、鮮度。
生きの良い音がする。
絵画もそうだが、一見色褪せて感じられる古典の作品でも、自分の周波数が少しでも合致すると、運命の糸がピンと強く引かれるように、全てが鮮やかに心の中に蘇る。
時を経て劣化し色褪せた姿に自分の目が惑わされただけであって、作品自体は、いつまでも変わることなく人の心を打つエネルギーを放出し続けている。
それが名作と呼ばれる由縁でもあると思う。
古ぼけさせるのも、殺すのも、そして鮮やかに蘇らせるのも、自分の感性次第。
過敏になっている今だからこそ、心にストレートに響いてきたのかもしれない。
素晴らしい。
芸術は、生きるために必要不可欠だと強く感じた。
人の心を震わせるために、アーティストはつねに感性を奮っているべきだ。
考えることをやめるな。
感じることをやめるな。
どんなに苦しくても、止めてはいけない。
それら全てが作品の純度に直結する。
みっともないことばかりだが、素晴らしい作品に触れた瞬間、すべてを忘れてしまう。
なにをもってしてアーティストであるのか、わからない。
私は自分がアーティストだともミュージシャンだとも思っていないし、だからといってアーティストないしミュージシャンなのかと問われれば、そういうことをしていると応える。
そういう器を、職を目指す人もたくさんいるし、それは悪いことではない。
逆に周りの人々に、目標や志しを、確固たる何かを明確に示せない自分が、申し訳なくなったりもする。
でも、同じ土俵にのぼる必要はない。
私は、画家がしたいわけではないし、シンガーソングライターになりたいわけでもなくて、ただ描きたくて描いて、演りたいから演っている。
理由はそれぞれ違うけれど、逃れることのできない人間がそのスタートラインに立ち、残るは純度を極めるだけなのだと思う。
すべては、心震わせるなにかのために。
敬々さんが青森に帰られる前、
「我々は詩人だから」
と仰っていて、会話の途中の、たったそれだけの言葉が驚くほどすっと入ってきて、感動した。
この方は詩人だ、と本気で感じたし、出逢えたことを光栄に思った。
池田省一さんのライブを拝見した時にも、似たような感覚を覚えた。
うまくは言えないが、私は、活動歴とか代表作がどうとかそんなことはどうでもよくて、ひとり心を耕して耕してきた人の言葉やその他多くの部分に、畏敬の念が止まない。
自分もそうでありたい。
小さな街で、看板娘として生きるのは無理だと思った。
そこでは幸せも喜びも約束されていたし、うまくやれるだけの器量もそれなりにあった。
それでも無理だという確信があった。
だから看板を担いだまま出てきた。
自分で店を開くことは出来ないし、どこかにとどまるのは違うから、看板を背負ったまま歩いてきたし、多分ずっと歩いていく。
正しいかどうか、間違いかどうかは、後の自分が決める。
頭ではわかっていても不安ばかりが胸にあるから、笑える時には笑っていたい。
「あなたは笑顔を浮かべながら障壁を築くところがあるから、無理に笑う必要はないんだよ。」
と改めて言い聞かせる。
その上で、笑える時には笑っていたい。
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