常に現在を生きているか。
思い返したら月曜日、立ち寄ったキャンドゥでギャバの錠剤を買い、日々飲んでいた。
ストレスや興奮を鎮める効果があるという、ギャバ。
抑うつからの急激な覚醒、これも一役買っていたのでは。
精神安定剤の類いは飲んだ事がないが、以前鼻詰まりの新薬を飲み、薬が効いている間だけポジティブの塊になった経験があるので、否定できない。
もしプラシーボ効果だとしても、助かった事には変わりないし。
とりあえず、今ある15日分飲み切っておこう。
食べる量は、減っていないが格段増えてもいないので、お誕生日にだだからもらったビタミンCも一緒に。
サプリメントの有り難みをひしひしと感じる。
鉄分不足=うつまっしぐらなので、マイグラか鶏レバー煮を毎日必ず食べるようにしている。
ぎゃーぎゃー泣いたり、日記に絶望的心情を吐露しながらも、密かに改善措置を実行していたらしいと後から気付く。
1年半の経験もあるが、できることからやってくれていた自分に感謝しなきゃ。
たくさん食べられるようになったら、大好きなひとりラムしゃぶしゃぶで労いたい。
半身浴の最中、いつも本を読む。
今読んでいる本の中に、
『男は常に現在を生きていた。』
という一文があった。
内容はシリアスとは程遠いもの。
知人の葬式に出席した、ある役者の話。
役者は巨漢で、朝食を食べたというのに葬儀の前にカレーライスを食べ、その後も私欲のままに、葬式で出された寿司を大量に喰らい、夜の舞台出演まで時間があるからと喪服を着たまま行きつけの性感マッサージ店へ行き、それでもまだ時間が余っていたのでこれまた喪服のままラーメン屋でチャーシュー麺を食べ、それでもまだ時間があり別のラーメン屋でチャーシュー麺を食べて舞台に望み、最終的に食べ過ぎで病院へ運ばれたというとんでもない話。
一軒目のラーメン屋でチャーシュー麺を食べたというくだりで、
『男は常に現在を生きていた。過去は気にしない。自分が今なぜ喪服なのかも、もう今となってはわからないほどだった。』
という一節があった。
そのとき途端に目が覚めたわけではない。
けれども、その文章がどこか頭に残った。
私は果たして、現在を生きているのだろうか。
スーパーの前に繋がれた小型犬が、鼓膜に刺さるような鳴き声を全力で響かせていた。
私は小さい頃に噛まれた経験から犬が苦手なので、可愛いといった類いの感情移入はせず、近所迷惑レベルの声量と周波数だなと思って見ていた。
だが、小さい身体をぴょんぴょんさせながら全力で鳴き喚く犬を見て、"常に現在を生きていた"という言葉を思い出した。
飼い主が、もう二度と戻ってこないと思って鳴いているのだろうか。
自宅への帰路をゆっくり歩いていると、先程の小型犬が私を追い越していった。
飼い主にリードを引かれ、今度はけたたましい鳴き声を上げることなく、むしろスキップしているかのような軽い足取りで、角を曲がって消えていった。
自宅に帰り、換気のため網戸にして過ごしていたら、向かいの家から赤ん坊の泣く声と、それをあやす家族の声が聞こえた。
どうやら、お風呂に入れているらしい。
いつもは赤子のいないお宅のはずなので、お孫さん達が帰省しているのだろうか。
楽しげに気を引こうとする大人たちと、それをかき消すような赤ん坊の泣き声。
徐々にその声は弱まり、穏やかになっていく。
今頃、お風呂から出て、あたたかいタオルにくるまれているのだろうか。
シチュエーションはそれぞれ違うけれども、本の中の男も犬も赤ん坊も、いずれも皆、
『現在を生きていた。』
という言葉がきちんと見合った。
それに比べて、私は、どうだ。
過去や未来や、目に見えない人の心、今ここではないどこかへ、意識を攫われ過ぎてはいないか。
嫌だと感じたときに、
「イヤだ!!!」
と叫んだことがあるか。
成し得るかどうかは別として、これがしたい、あれが欲しいと、感じたままにぶつけた事が、果たして今まで何回あっただろう。
やりたい放題で良いはずのライブの内容でさえ、自分以外のなにかを鑑みて悩んだりする。
あの人がこう思うだろうからとか、これは不適切かもしれないからとか、そういうことばかりを考えて、選択し、生きてきた。
選択した由縁も正解も自分の中にないので、不安や後悔は底を知らず、時と共に粘度を増し陰湿なものとなって、自分の影をより濃いものにしていく。
私は今まで、知らず知らずのうちに、自らを嘖む基盤を築いていたのではないだろうか。
居酒屋でなにを注文しようかと問われた程度でどうしてよいのかわからなくなる私にとって、その時の自分の思いのままに発言し生きるというのは、とてつもなく難しい。
それが正しい判断であるかどうかの確信がなく、言葉は詰まるばかり。
でも、犬の鳴き声と赤ん坊の泣く声を聞いたら、私が思っているよりも、もっと簡単なものなのかもしれない、と思った。
自分本位に思ったことを口に出すのは、わがままだと思っていた。
理由もなく、結論も出ていないものを言葉にするのは、無責任なことだと思っていた。
なるべく齟齬のない、正しい発言をしなくてはと思っていた。
でも多分、そうじゃない。
私は少々、頭を使いすぎる節がある。
びくびくしてもしなくても、命まで取られる訳じゃない。
泣いても笑っても辛くても、死ぬまでちゃんと生きている。
でもなるべく、自分をいじめないでいられたらいい。
もっともっと、感じたまま生きていこう。
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