『プリデスティネーション』、観た。
今日は初夏のような天気。
やっと洗濯物が片付けられた。
明日はまた下り坂みたい。
徐々に梅雨を迎えるのか。
そういえば今日は4月最終日だった。
もう5月。
はやいものである。
『プリデスティネーション』という映画を観ました。
SF。
タイムトラベル、いわゆるタイムリープもの。
菩薩がお勧めしてくれたのだったと思う。
観たい映画リストからゲオでレンタルしてちょこちょこ観ている。
SFは全然観ないジャンルなのだけれど、めっちゃ面白かった。
『シュタインズゲート』など伏線回収モノが大好きなので、ドンピシャ。
内容はネタバレになってしまうので書かないけど、本当に面白かった。
90分くらいなのも、間延びしなくて良い。
この手の映画も観ていきたいなと思った。
映画館は閉まっているけど、DVDなら観れるもんね。
最後にドキッとする感じ、良いなあ。
その手の作品は、乙一氏の『夏と花火と私の死体』を読んだのが一番最初かもしれない。
乙一氏の小説は、脳味噌ひっくり返される系、ホラー系、コメディ系に心温まる系と、ジャンルに富んでいて、しかも読み易い。
短編が多いのも個人的には嬉しい。
自分の好きな系統がどの流れに属しているのかとかを把握するのが苦手というか興味が無いので、私の"好き"はいつもあちらこちらに点在している。
己の好きが軸にあれば、歴史とか云々はどうでも良くない?と思う。
ミーハーと言われたらそうかもしれないけれど、流行に即していない事を考えると、ちょっと違うのか。
時系列や分野を広大な地平に例えるとすれば、私の好きは、細長い型でそこだけピンポイントにくり抜かれたような感じ。
人からしたら穴ぼこだらけかもしれないけれど、私が欲しいのは、私にとってキラキラして見える元素だけなので、それでいいと思っている。
「もっと勉強しなくちゃだめだよ。もったいないよ。」
などと言われると、ああこの人は学校で習う形式をそのまま人生にも当てはめてしまっている人なのだな、と思う。
専門家や学者を志す者への言葉なら頷ける。
でも私は、ただただ好きなだけ。
自分の"好き"以外の、タテマエみたいな飾りに熱心になるほど、人生はそんなにだらだら長くない。
私は好きなものは好きだし、ただそれだけ。
誰かに見せびらかしたいんじゃなくて、好きなだけ。
こうしなくちゃとかって、結局形式でしかない。
好きだからってだけで好きって言って、何が悪いのだろう。
これを観ていないなら映画が好きとは言えないとか言われると、
「それ、本当に思ってる?」
って思っちゃう。
こうでなくちゃ、と説教してくる人って、それ自体を自分の欲求の隠れ蓑に使っている人が多い。
"映画を沢山知っている自分"という自尊心を保つ為に、
「そんなものも観ていないのか。」
と蔑んでみたりする。
仕事ですぐ人を罵る人も、そう。
他者との比較で優越に浸る行為は、自らを貶める事になるのだと何故気付かないのだろう。
そういう棘のある私欲が垣間見えると、対等の対話という選択肢をしまって、相手の気持ちのいい言葉を選ぶようにする。
そういう意味では、欲する所がとてもわかりやすくて対応に困らない人種ではある。
自分の人生の時間を割いてまで、長く付き合いたいとは思わないけれど。
寧ろそういう人間の居る空間からは、光の速さでおさらばするべき。
知識や発見は広め共有するものであり、自らの虚勢を張る為の道具ではない。
と、人の振り見て心に刻む。
私は自分に自信がないので、普通に考えて歪曲された意見や指摘に対しても、
「もしかしたら向こうが正しいのかな。」
と思ってしまう節がある。
もしくは、揉め事を起こしたくないという平和主義が過ぎて、
「私が我慢すればいいだけだ。」
と気付かないふりをする癖もある。
「じゅんちゃんは優しいから麻雀向いてないよ。ロンって言えないでしょ?」
と言われた事があったが、私の本質を突いた一言だなと今更ながら思う。
社会復帰も視野に入れ過ごしているこの頃。
違和感に気付いたら即逃げる練習中。
私は周囲に過敏な方なので、気付いてないはずないのだ。
気付いた自分に蓋をしていては、きっとまた同じ事の繰り返しになってしまう。
第六感という、自分自身を信じて行動していきたいと思う。
好きなものは好き、嫌なものは嫌。
自分の権利は、きちんと行使してゆこう。
ばんごはん。
サラダ、肉野菜炒め、キムチ、かぶの葉のお浸し。
野菜祭りか。
昼間夏かと思ったのに、夜のこの時間になると寒い。
夜ご飯を早くに食べて小腹が空いたなあと、昨日買ってきたパリパリバーというアイスを食べて、気付いた。
寒いわ。
なんでアイス食べたし。
Tシャツ一枚でごろごろしていたせいでもある。
油断したわ。
ちゃんとパジャマを着た。
寝るぞ。
いい夢を観たい。
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