しめじの卵とじと、逡巡と。
昨日の肉じゃがの多過ぎた煮汁は無事、しめじの卵とじに昇華しました。
親子煮でもよかったが、親部分の鶏肉が無かったのでこちらで。
昔職場の食堂に"他人丼"というメニューがあった。
よくわからないが頼んでみたところ、親子丼の鶏肉が豚肉にすげ替えられた料理だった。
親子じゃないから、他人丼か。
別種族と共に煮込まれた挙句、おまえらは他人だからという理由だけで名付けられたと思うと、なんというかいたたまれない。
"人"じゃないし。
そうやって都合のよいところだけ自分達の土俵上の言葉を使うのが人間の常ということか。
うさぎは一羽だとかこだわるのに。
そもそも親子丼と言っているが、一般家庭で作る親子丼の具の鶏肉と卵が本当の親子である確率は、ほとんどゼロであろう。
「これうちの子じゃないんですけど」
と思いながら丼に盛られる鶏肉の気持ちを思うとなんとも言えない。
「はい!本物の親子で作りました!」
と出されてもそれはそれでちょっと重たいのだが。
りなちゃんが以前ツイキャスで、
「ちがう個体が混ぜられているから、合挽き肉は苦手」
というような事を話していたのを思い出した。
私はそんな事全然考えもせず、食べ心地だけを念頭に置いて手に取っていたので目から鱗だった。
牛豚合挽き肉。
牛や豚からしたら、
「ええ!?ワイをバラバラにミンチにした挙句、あいつと一緒に混ぜてパックに詰めるんすか!?」
って感じだよね、確かに。
人間の食への探究心は、時に残虐である。
最近、また、自分が恐れているものの正体を探ってみている。
以前日記に、"インスタントコーヒーがなくなってしまうのを恐れて一回分を切り詰めて使用する癖がある"というような事を書いた。
今一度紐解いてみると、私は、変化する事を恐れていたのかもしれない。
変わってしまうことに慌てふためきたくなくて、なるべく今と同じ状態を保つべく、若干薄めのコーヒーをすすっていたのではないだろうか。
映画『下妻物語』の中の、
「幸せを勝ち取ることは、不幸に耐えることより勇気がいるの。」
というセリフを思い出した。
私は、今が変わってしまうのを恐れて、現状を先細らせていたのか。
守銭奴で手持ちが減るからという以前出した結論が覆る訳ではないが、変化を嫌うというのはなるほど、しっくりとくる理由だと思った。
最近、少しずつ、製作や創作活動に手が伸びるようになってきた。
身が入るように、という方が正しいだろうか。
今までも勿論やっていたのだが、なんというかテンパりながらというか、どうしようどうしようと不安に責付かれながら着手することが殆どだった。
美術的作品に関して、特にそう。
なんというか、制作中もずっと心の端の方がざわざわとしていた。
いつからそうなったんだろう。
大学で自分の背ほどもある100号のキャンバスに立ち向かった時には、既にそうだった。
予備校でお気に入りのインディアンイエロー1本分とメディウムをめいっぱいパレットに出して、ペインティングナイフでキャンバスに塗りたくっていた頃は、違った。
あの時は陰りなんてなかった。
石膏を油絵具に混ぜて、キャンバス上に立体の点字ブロックを作った時も、まだときめいていた。
自分へのなのか、画材へのなのか、なにか期待とワクワク感でいっぱいだった。
新鮮で鮮烈な感覚が、時間を経る事により廃れてしまったというのだろうか。
長く離れたせいなのか、生活と心が安定してきたからなのか、無心に手が伸び、時が過ぎる喜びを久々に噛み締めている。
いつから、"描いていますよ"という口実の為に描いていたんだろう。
そんな性に合わないこと、いつ覚えたんだろう。
人の体がアルカリ性と酸性を保つように、心も革新と停滞を繰り返しバランスをとっていくのかもしれない。
まだ全然確信はないけれど。
今が常だという思考を改め、日々は繰り返しではなく更新であり一歩先は未知であるという意識を持つことが出来れば、心のリミッターを外して打ち込めるのかもしれない。
一概には言えないが一理あるのも確かだと思う。
可能性と不確定しかない現実だけれど、明日も生きていたいと思う。
もう眠らなくちゃ。
また少し、思考を進められた。
いい夢が見られそう。
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