虚栄とさみしさ。
[▲飛行機雲が電線と交差していた。私の地元では電柱は全部地中に埋まっているのだが、東京はいつ地下に埋め込まれるんだろう。電柱や電線は空を切り取ってくれてそれはそれで心地良い存在だから、そのままであって欲しいとも思う。]
用事という程ではないけれど、軽い相談やふと話をしたい時に連絡する友人が思い浮かばない。
基本的に、いわゆる堅物人間なんだろう。
もともと馴れ合いなどの行為があまり好きじゃないので、そういうひとつひとつを避けてきた結果だと思う。
女子高生の頃、LINE教えて!と隣のクラスの子に言われた。
何回か話した事があるだけの子だったが、当時から来るもの拒まずだった私は特に気にもせず連絡先を交換した。
ある夜、その子から電話が掛かってきて何事かと思い、どうしたの?と聞いた。
身近な友人でも電話なんてしないので、何かあったのかと思考を巡らせた。
しかし彼女は予測に反して、特に用は無い、と言うのだ。
あ、そうなんだ、と返し、終了する会話。
しかし、向こうは電話を切らない。
あー、あのドラマ観た?と聞かれ、うちテレビ壊れてて映らないから観ていないんだと答える。
そうなんだあ、という返答と共に、再び訪れる沈黙。
そうか。
この子は、電話をしたという事実を欲しがっているのか。
電話した事実により、"電話をするような仲の友達"という証明になると思っているのだろう。
ははあ、と少し呆気に取られた。
私の思う友人というのは、気付いたら自分の心の近い距離にいる人達のことである。
一度しか対話していなくても、年に一度電話するかしないかでも、大切な友人だと感じる人だっている。
過ごした時間の長さや、対話や電話の回数で取得できるものではない。
勿論、この人と親しくなりたいと思って連絡を取ったり、努力して仲が良くなるパターンもある。
だがそれらもポイントカードのように、全部貯まったらオトモダチ成立というシステムではない。
互いの波長や趣味趣向、タイミングなどが重なって初めて、友人と呼べるであろう関係になる。
その子の事が嫌いだった訳ではないが、あまりにも間の持たない対話に耐えかねて、用事があるからそろそろ切るねと電話を終了した。
実のある会話も友人も、その中身が満ち足りた結果である。
その器自体を目的とすると、どうしても中身を伴わないペシャンコのカタチになってしまう。
仲良しグループが羨ましくなる思春期の女の子には、ありがちなのかもしれない。
総じて、見栄というものである。
大人になってからも、それらを引きずっている人は山ほどいる。
未熟だとか思慮が足りないという面もあるかもしれないが、最近は、人間関係における価値の捉え方が私とは違うのだなと思うようになった。
エンブレムや水戸黄門の紋所の様に人間関係を提示し、自身のステータスにしたい人達なのだと思う。
私は残念ながら、JK当時から今に至るまでそういう感覚が備わっていないし、湧いてこない。
そんな深くまで考えずもっとフランクな人間だったら、あの時のあの子と今でも繋がっていてちょっとした相談や世間話のひとつも出来たのだろうかと考えてみないこともない。
しかし、今思い返しても、あの中身のなさすぎる対話に耐えられる気がしない。
これで良かったのだろう。
中身のない連絡で言えば、小さい頃、精神を病んでいた親戚のおばちゃんがうちによく電話を掛けてきた。
母が電話を代わりたがらず、出掛けていると伝えてとジェスチャーで言われ何度となくおばちゃんの電話の相手をした。
内容はいつもほぼ同じだった。
天気のこと、おねえちゃんは元気か、父親は元気なのか、など。
それらでゆうに1時間拘束される。
子供心に無碍にするのは良くないと思い、受話器を握ったまま一生懸命受け答えと作り笑顔を返した。
最初は、おばちゃんはお母さんと話したがっているのになんで出てあげないのだろうと思った。
そのうち電話の相手をするのがひどくつらくなって、おばちゃんに用事があるのですみませんと嘘をついて電話を切り上げるようになった。
胸は痛んだけれど、どうしようもなかった。
毎回繰り返される同じ話、時間のひっぱり具合に、もう飽き飽きしてしまったのだ。
お母さんもそれが嫌で私に電話を取らせたのだと気付いたのは、もう少し大人になってからだった。
意味のない電話を掛けてきたあの子とおばちゃん、2人の共通点は、さみしさなんだと思う。
さみしいから電話してきたんだろう。
それなのに私は、飽きたり、辟易して、人の気持ちを受け止めずに、見て見ぬ振りして、嘘をついて、とても罪深い人間だと思った。
沈黙を孕んでなお続く異様な通話。
相手の心の孤独感に、どこか気付いていたはずなのに。
そういう自分を責めた事もあった。
それでも、今になって思う。
私は大勢の人間と同じく、マリア様にはなれない。
だから仕方がない。
飽き飽きもするし、心労もしてしまう。
私でなくてもそうしていた、と心に折り合いをつけて生きている。
精神崩壊の前兆として、今まで気楽に話せていた相手にも気を遣い出すというのがある。
一昨年暮れにおかしくなる数ヶ月前、たしかに
「私如きの話はするべきじゃない」
と思って口を噤み続けていた。
ありもしない流れを深読みして、自分の行動が不適切だと思い、身動きが取れなくなる。
今はだいぶ回復した。
それでも、くだらなくも最近引っかかったエピソードを話せるのはダムダム団で集まった時くらい。
そう考えると稀有な存在である。
カレーの日のみんなとの打ち上げも、堅物の私にとってはとても貴重な場である。
最近はご時世でなかなか行けずにいるけれども。
色々省みた結果、軽い話が振れる相手を作るより、ちいさな悩みによるストレスを発散する方が性に合っているなと改めて思った。
歌をうたうのも、文章を書くのも、そのひとつ。
なにか新しく、ガーッとパワフルな発散方法を取り入れてみたいと思った。
久しぶりに、カラオケでも行ってみようかな。
とはいえ一瞬でも、ふわっと話が出来る人がいないなぁと頭に浮かぶということは、私もさみしいということなのかもしれない。
いや。
無職で時間が有り余っているせいか。
さみしいんじゃなくて、暇なのか。
暇人かよ。
思いの外議題の根源がチンケで安心した。
おやすみなさい。
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