かぼちゃポタージュ破裂した。
今日はたくさん眠った。
たまには本当にぐでーっとするだけの日も良い。
なにかしなくちゃ駄目だとせっつかれていた時期を思うと、だいぶ心身の緩め方が上手になってきたように感じる。
日常生活の基盤となる習慣を日々普通にクリアできるかどうかは、心の余裕と大きく関係している。
ゴミ出し、はみがき、洗顔、ごはん、お風呂、睡眠などなど。
以前入浴中にふと、"自分という家畜をいかに快適に健康に過ごさせるかが重要なのだ"と思った。
たのしかったりおいしかったりするためには、きちんと身体を洗ってやり、きちんと歯を磨いてやり、きちんと休ませなくてはいけない。
この身体を健やかに保つというのは、人生を過ごす上で、最低限の代償なのかもしれない。
家電のように、もう使えなくなっちゃったから新しいのに替えよう、とは出来ないのだから、そうなんだと思う。
面倒ではあるが苦行とは言い難いそれらをこなすことで人生を味わえるとは、なんとお安い代償なのか。
自分の身体をボディタオルでがしがし洗っている時、身体は替えの効かない入れモノなのだな、とよく思う。
自分の身体ではあるが、"私"というより"私の物(身体)"と言う方がしっくりとくる。
かぼちゃのポタージュが残り一杯分だったので器に盛ってそのままレンチンしたら見事破裂した。
すごい絵面だ。
電子レンジの中が大惨事だった。
もったいないー、もったいないー、でもしかたない、しかたない〜、と呟きながらウェットティッシュで拭き取りついでに軽くお掃除。
サランラップの重要性を深く心に刻む。
食費ひと月1万円チャレンジももうあと数日となった。
突然寿司とかピザとか取らない限り、大丈夫な残金具合。
がんばりました。
やっぱりきちんと計画すれば出来るものなのだな。
なせばなる、なせばなる、だ。
[▲ネットで見つけた画像。私は便座、魂胆、死力だった。なんだそれ。]
誰かにアドバイスをされても、本当の意味がわからない時がある。
それはまだその時じゃないからなんだと思う。
人はいろんなきっかけや縁によってピンボールみたく向かう先や考えが変わっていく。
そのひとつひとつの起点は、まさに奇跡と呼ぶに相応しい。
たくさん悩んでたくさん考えて、なるほどそういうことかと真理に近付いた気持ちになる。
合点のいく自論や経験をたくさん並べて、納得のいくものを拾い集めて、自分は今なんでもわかるんだという感覚になる。
そういう時、人の声はその人の耳に届かない。
言葉として届いても、
「そんなことは分かっている」
とか、
「それは間違いだ」
とか、声に乗せた真意はすり抜けたり跳ね返されたりしてしまう。
なぜなら、それらを受け入れてしまうと、ここまで自らが構築した真理が揺らいでしまうから。
周りの人の声が耳に入る時というのは、
「自分はもしかしたら間違っているのかもしれない」
と心の鉄壁にほんの少しでも風穴があいている状態の時だと思う。
人は不安を埋めるために、たくさん武装する。
技術とか理論とか思想とか。
それらに守られているつもりでいるけれど、実の所は逆だったりする。
最初は熱射や雨風から守ってくれていた分厚い壁も、閉じたままではそのうちカビが生えて雑菌が増え、身を蝕む悪害となる。
だからまずは、自分の不安を埋めていたモノを手放して、守る必要がないことを自覚するべきだ。
そうやって、"自分の不安そのものが単なる亡霊であったのだ"と知るべきだ。
全て分かったと感じた時が、一番危ない。
神様はいつも誰かを通して現れて言葉を残していく。
嬉しいのか、ありがたいのか、恐れ多いのか、光栄なのか。
たくさんの気持ちが交錯して、それでも一番に溢れ出てきたのは、とてつもなくあたたかな安堵だった。
恵まれていることに気付かずにいた私もまた、亡霊に取り憑かれている1人であったのだ。
けれど声が届いたということは、いまようやくその時が訪れたということだと思う。
私の心に風穴をあけられるのは、いつだって私しか居ないんだから。
きちんと自分と向き合うことをしよう。
嫌悪感に対してそっぽを向くのも、作り笑いも、心が削れる事全部、もうやめにする。
私の心の中に居座る部外者全員殺す。
いらない物も、全部全部焼き払う。
きちんと自分と向き合う。
私は、自分の戦場にいる人が大好きだ。
だから、私もいい加減、きちんとひとりになろう。
昨日もビール3杯まもりました。
まる。
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